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#BL
にゅうひん☆
10,732
広いベランダに簡易なテーブルとリクライニングチェアを出して、阿部と岩本は『お月見』の準備をしていた。
数日前の朝の番組で、阿部が中秋の名月の話をしたこともあり、せっかくだから月を見ようという流れになったのである。
スマホで作り方を見ながら、二人でちぎって丸めた月見団子にみたらし餡を添え、それぞれ皿を手に、リクライニングチェアに腰掛けた。
そばに置かれたテーブルには、岩本が気まぐれに花屋で買ってきたススキ。
花瓶がないため、ミネラルウォーターのペットボトルに生けてあるが、ススキがあるだけで雰囲気が違う。
日中はまだ夏の名残を残した暑さを感じたが、夜になると秋めいて、頬を撫でる夜風が心地良い。
頭上には丸い月。
天気に恵まれて良かったな、と阿部は思った。
「こんな風に月を見るの、初めてかも」
団子を咀嚼しながら岩本が呟く。
今日に限らず、月はいつも空にあったが、月を見る目的で空を見上げることはなかった。
薄墨の空に浮かぶ黄色い月を眺めていると、不思議と心が落ち着く気がする。
「…『月が綺麗ですね』って、誰の何のフレーズだっけ?」
ふと脳裏に浮かんだ一文を、岩本は阿部に尋ねる。
「夏目漱石だね」
阿部が間を置かず答えた。
「漱石が、『I Love You』をそう訳したっていう有名な逸話がある」
「愛しています、じゃないんだ」
「ロマンティックだよね。文豪って言われる人の感性って感じ」
当時の人の奥ゆかしさが感じられるフレーズだと、阿部は思った。
「でもさ、『月が綺麗ですね』って言われて、何て返すの」
岩本は、風に揺れるススキを指で撫でながら疑問を口にする。
「…二葉亭四迷って作家がいたんだけどさ」
少し考えてから阿部は切り出した。
「彼はロシア語の『あなたのもの』って意味合いの言葉を『死んでもいいわ』って訳したっていう有名な話があって。だから『月が綺麗ですね』には『死んでもいいわ』がいいんじゃないかな」
「…重くね?」
死んでもいいという言葉に、岩本は若干怯む。「まあ、当時は『愛してる』とか、気楽に口にする言葉じゃなかったんだよ。オブラートに包んで、それでも情熱とか嬉しさを乗せた言葉が『死んでもいいわ』なんじゃないかな」
ふうん、と呟き、岩本は阿部を見た。
月を見上げるその横顔は、物憂げで儚い。
綺麗だな、と岩本は思った。同時に、やっぱり好きだな、とも。
手を伸ばして、肘置きに置かれた阿部の手に手を重ねた。骨ばった長い指に指を絡める。
「…月が綺麗ですね」
静かに口にした。
阿部は岩本を見て、それから少しいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「…ずっと前から、月は綺麗でしたよ」
低く、そう囁いた。
岩本はその返しにきょとんとする。
「…何それ。どういう意味?」
尋ねると阿部は、ただ微笑んだ。
「え、ねえ、わかんない。教えて」
「聞くなよ、野暮だな」
食い下がる岩本に、阿部は苦笑した。
「だって、わかんねーもん」
岩本は口を尖らせる。
「ずっと前から貴方が好きでしたよ、ってこと」
月を見上げて、阿部は言った。
その声は、夜風に溶けてしまいそうなほど穏やかだった。
岩本はなんだか急に照れくさくなって、自分も空を見て、月見団子を頬張る。
「…阿部は、やっぱり頭いいね」
ぽつりと呟いた。
「ひかるは、俺が『月が綺麗ですね』って言ったら、なんて返す?」
阿部が尋ねた。
しばしの沈黙。
「…貴方のほうが綺麗ですよ」
考えた末、岩本は小さく答えた。
「愛してます…って言う」
阿部を見ると、阿部も岩本を見ていた。
「直球で言うんだ」
「曖昧な言い方、分かんないし」
「ひかるらしいね」
阿部はちょっと笑って、手を握り直した。
心地良い沈黙が二人の間に流れる。
たまには夜空を眺めるのもいいな、と岩本は思った。
都会の夜空でこんなにリラックスできるなら、空気の澄んだ山なら、もっと気持ちがいいだろう、とも。
「ねえ今度、山行こ」
「山ぁ?」
突然の誘いに、阿部は思わず聞き返した。
「冬のさ、澄んだ空気の中で見る夜空、絶対いいから」
岩本は目を細めて言う。
「まあ、星もよく見えるし素敵だろうね」
阿部も冬の夜空を思い浮かべた。
漆黒の世界に散りばめられた星々を、二人で眺めたら最高だろう。
「でも冬か〜。寒そう」
寒さが苦手な阿部は、苦笑した。
「しかも俺、アウトドア初心者だし」
「俺がいるから大丈夫でしょ」
任せろ、と岩本は笑う。
「寒いのも、くっついてれば問題なし」
阿部は「そっか」と短く漏らして、少し照れたように視線を落とした。繋がれた手のひらから伝わる岩本の体温が心地よくて、このぬくもりがあるなら冬の寒さも悪くないかもしれない、と密かに思い直す。
「いつ行くの?」
尋ねると岩本は、うーん、と少し考えた。
「阿部の誕生日あたりにしようか」
そして言う。
「誕生日に山で二人きりで星空見るとか、最高にロマンチックだろ」
阿部は空を見上げた。
さっきまで見ていた月が、少しだけ違って見える。
まだ見ぬ冬の夜を想像すると、自然と頬が緩んだ。
「……うん」
阿部は小さく頷いた。
「楽しみだね」
月明かりの下で、二人の指が絡んだまま離れない。
文学的な言葉遊びも悪くない。
けれど、遠回しな言葉よりも。
「好き」も「愛してる」も、まっすぐ伝えてくれる岩本の言葉が、阿部には何より嬉しかった。
誕生日には、どんな星空が見えるだろう。
凍えるような夜に、二人でどんな話をするだろう。
そして、その夜もきっと。
今日と同じように、隣には岩本がいる。
そう思うだけで、胸の奥が温かくなる。
阿部は目を細めて、静かに月を見上げた。
まだ少し先の、冬の夜を思いながら。
コメント
1件
わぁ、素敵な夜のお話でしたね…🌙 「月が綺麗ですね」のやりとり、お互いの性格がよく出ていてドキドキしました。阿部さんの「ずっと前から月は綺麗でしたよ」っていう返し、奥ゆかしくてじんわり胸に沁みます。岩本さんの直球な「愛してます」も、その対比がまたいいなあ。冬の山の約束、まだ見ぬ星空を想像して温かくなる感じ、読んでいてとても幸せな気持ちになりました。二人の指が絡んだまま離れないラストが印象的です🤍