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✧≡≡ FILE_042: ウィンチェスター大聖堂 ≡≡✧
ウィンチェスター大聖堂。
かつては神に捧げられたその建物は、今、死と隣り合わせの爆弾を抱えていた。
巨大な石造りの尖塔は、灰色の空の下でそびえ、風が音もなく吹き抜けていた。
その堂内。
正面祭壇の上に、それは鎮座していた。
──最終爆弾。
他の四基とは異なる、大型筐体。
重厚な鋼鉄の外殻。
『左右に伸びた二本のケーブルのうち、片方は焼け焦げ、完全に機能を失っている』。そして、もう一方だけが、まだ“生きて”いた。
この爆弾は、電気が途絶えた瞬間に爆発する構造。つまり──残る一本が止まれば、この街は吹き飛ぶ。
ローライトは足を踏み入れた。
手に握るのは、ワイミーが「もしもの時」に託した袋。中には、限界まで詰め込まれた“ドライアイス”が入っていた。小さな体で運べるだけの、冷却材のすべて。
爆弾の表面には、小さなデジタル温度計が光っている。
──28.8℃。
すでに、臨界点を超えていた。
「……あと、0.1度……」
額を伝う汗が、冷たい床に落ちる。
凍える空気が喉に突き刺さり、未熟な肺が悲鳴を上げる。
それでも、足は止まらなかった。
「間に合わなければ……この街は吹き飛ぶ」
そしたら──“帰る家”が無くなる。
──自分のじゃない。
──“キリスさん”のだ。
あの家が無くなったら──キリスさんは二度と帰って来ない気がした。
だから、何としてでも食い止めたい。
ドライアイスの温度は−78.5度。
もし爆弾を冷やすことができれば、暴走を数分でも遅らせられる。それだけの時間があれば、外で作業を続けるワイミーさんが電力を繋げるはずだ。
──だが、問題は“構造”だった。
「……ッ、……ッ……」
震える指を動かしながら、袋をそっと床に置く。
呼吸を整え、温度計を見る。
“28.8”──その数字は、ちらつきながらも着実に上昇していた。
──このままでは、確実に臨界に達する。
ローライトはドライアイスの袋を爆弾のそばに置き、コートを脱いだ。
袖を抜く瞬間、ひゅっと空気が肺から逃げる。
−2度の世界。冷気が、一気に肌を刺した。
「……ふぅ……」
白い息が、ふわりと天へ昇る。
ドライアイスにはまだ触れない。
急激な冷却は金属を歪ませる。外殻がわずかでもずれれば、内部の光が漏れ──瞬時に爆発するだろう。
ゆっくりと、慎重に冷やさなければならない。
ドライアイスはあくまでも、最終手段。
だから、ローライトは自分の体を使うことを選んだ。
手袋もつけていない。コートから出ていた指先は、血の気を失い、白くキンキンに冷えていた。頬は痛みを通り越して感覚がなく、頭の奥までじんじんと冷えが刺さる。
まるで、体の熱が全部この金属に吸い取られていくみたいだ。
それでも、ローライトはそのまま手のひらを押し当てた。
「……これで、少しは……」
自分の冷えた体温で、たった“1度”でも下げられれば──それでいい。
その“1度”が、街を、キリスさんを、生かすかもしれないから。
「………………」
それにしても……──あたたかい。
胸の奥がじんわりと熱を取り戻していくようで、痛いほど冷えていた手が、今だけは“生きている”と感じた。
金属の表面は、熱いのに、その中に──不思議な“ぬくもり”があった。
両腕で、爆弾を包み込むように抱きしめてみる。
冷え切った頬をそっと寄せ、身を小さく丸めた。
全身で、覆い隠すように。
まるで、それを守るように。
──ドクン。
──ドクン。
……なんだろう、この感覚。
──ドクン。
──ドクン。
懐かしいような、あたたかいような。
──ドクン。
──ドクン。
お腹の中みたいで心地いい。
──ドクン。
──ドクン。
お腹の中?
──ドクン。
──ドクン。
誰の……?
お母さんの……?
──ドクン。
──ドクン。
お母さんなの……?
──ドクン。
──ドクン。
ここに、いるの……?
──ドクン。
──ドクン。
「……お母さん」
爆弾を抱きしめたまま、少年はそっと目を閉じた。
その瞬間──
「──そこに、“母親”はいない」
低く、淡々とした声が、堂内に落ちた。
少年の肩がびくりと跳ねる。
目を開けなくても分かった。その声を、忘れるはずがない。
ゆっくりと顔を上げる。
灰色の光の中──教会の扉に、ひとりの男が立っていた。
コートの裾が、冷たい風に揺れている。
──キリス・フラッシュハート。
少年は、ただ一言だけ。
「……キリスさん……」
その名を、呼んだ。
男は、微かに微笑み答えた。
「久しぶりだな、ローライト」
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