テラーノベル
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最初は、ただ楽しいだけの人生だった。
空はいつも広くて、どこまでも青く続いている気がしていた。放課後になると、ランドセルを背負ったまま友達と走り回り、息が切れるまで遊んだ。鬼ごっこ、かくれんぼ、意味もなく笑いながら走るだけの日もあった。それでも、全部が特別で、全部が大切だった。
「まだ帰りたくない」
そんな言葉を何度も口にした。
夕焼けが町をオレンジ色に染める頃、母親の声が遠くから聞こえてくる。それでも、あと少し、あと少しだけと時間を引き延ばした。今思えば、あの時間がずっと続くと思っていたのだ。
家に帰れば、温かいご飯が待っている。テレビの音、食器の触れ合う音、何気ない会話。そのすべてが当たり前で、永遠に続くものだと信じて疑わなかった。
週末になると、友達の家でお泊まり会をした。布団を並べて、夜遅くまで起きていることが特別で、秘密の時間のようで、心が躍った。くだらない話で笑い転げたり、怖い話をして結局眠れなくなったり、そんな時間が何よりも楽しかった。
「ずっとこのままがいいな」
誰かがぽつりとそう言ったとき、みんなで「そうだね」と笑った。
本気でそう思っていた。
何も知らなかった。
人の悪意も、心の痛みも、壊れていく関係も。
ただ、目の前の楽しさだけを信じていた。
学校は好きだった。勉強も嫌いじゃなかったし、先生の話を聞くのも楽しかった。クラスのみんなと同じ空間にいるだけで安心できた。そこが自分の居場所だと思っていた。
「おはよう!」
朝、教室に入ると、そんな挨拶が飛び交う。自分も同じように返す。その一つ一つが、確かに自分がここにいる証のように感じられた。
あの頃の僕は、自分が「普通」だと思っていた。
普通に笑って、普通に遊んで、普通に生きていく。
それがどれだけ壊れやすいものかなんて、考えたこともなかった。
ある日の帰り道。
特に何かがあったわけでもない。ただ、夕焼けの中を歩きながら、ふと立ち止まったことがあった。風が少し冷たくて、空がやけに静かに見えた。
そのとき、なぜか思った。
「この時間、なくなったらどうなるんだろう」
すぐにその考えは消えた。考える必要もないと思ったからだ。だって、そんなこと起こるはずがないと信じていた。
でも――
今思えば、それは小さな違和感だったのかもしれない。
何かが変わり始める前の、ほんのわずかな予兆。
それでも、その頃の僕は気づかなかった。
気づけるはずもなかった。
次の日も、また同じように学校へ行き、同じように笑い、同じように遊んだ。何一つ変わらない日常。それがずっと続くと信じていた。
未来なんて考えなかった。
考える必要がなかったから。
ただ「今」が楽しかった。
それだけで十分だった。
誰かに嫌われることも、裏切られることも、自分が壊れていくことも――
まだ、何も知らなかった。
知らないままでいられると思っていた。
あの頃の僕は、確かに存在していた。
無邪気で、何も疑わず、ただ笑っていた僕が。
でも、その「僕」は、
ゆっくりと、静かに、
気づかないうちに消えていくことになる。
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