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墓から這い出した死者の如き暗い表情の人々が列をなして歩いている。霧煙る道を西から東へやってきて、朝日の輝きに祝福された白亜の街、その白の門へと吸い込まれるように入っていく。戦争と冒険が彩るヴィリア海に弧を描く、マシチナ沿岸領土の中心に飾られた真珠の如き街、白の街。しかし羨望を集める都へと入っていく人々の振舞いに希望は見いだせない。自身を支えるのもやっとの老人を除けば女子供ばかりの隊列だ。
街と外を分かつ城砦は開かれているが、ソルムゴットの海風に鍛えられた衛兵たちは街に入ってくる全ての者に事務的に問いかけ、余すことなく記録している。
城門の脇では奇妙な風体の人物が疲れ切った人々の列を見つめていた。よれよれの三角帽子を目深にかぶり、季節に合わない分厚い外套を身に纏っている。さらには麻の包帯を巻きつけて肌を露出しないようにしていた。人々を見つめるやり方さえも奇が妙だ。左右の親指の先を人差し指の先にあてがい、できた長方形の窓から絶望の行進を覗いている。
「おじさん。何をしているの?」
おじさんと呼ばれた奇妙な人物はいつの間にかそばに少女が佇んでいることに気づく。栗色の巻き毛、海を溶かしたような青い目。風の通り抜けそうな涼やかな衣の上に、しかし艶々とした狐の毛皮を纏っている。疲れ切ってはいるが好奇心には勝てなかった様子だ。
「ちょっとした魔法ですよ。一枚良いですか?」と答えて尋ね、奇妙なおじさんは指窓から少女を覗き込む。
「どうぞ?」とよく分からないままに少女は応える。
すると男の指窓の中の少女が切り取られたかのように、一片の絵、『燃え立つ青』が指の間に現れた。男はその絵を少女に贈る。
「わあ! こんなの初めて! 素敵ね!」
「そうでしょうとも」
その他愛もなく平和的なやり取りをきっかけに、疲れを忘れた子供たちが集まってきて、男は次々に魔法の絵を贈る。
『覗き込む少年』。『好疑心』。『囁き合い』。『いたいけな笑み』。
絵を携えて戻る子供たちとそれを出迎える大人たち。僅かばかりではあるが、人々に明るい気持ちが蘇ったようだった。
「おい! そこの魔法使い! 何をしている!」
男は呼びかけられたらしいと気づき、威嚇する猪のように荒げた声の主の方を振り返る。見るからに酒に酔った赤ら顔の男だ。街の外からやってきたが、他所からやってきた隊列とは無関係な、街の人間らしい。
子供たちは母を見失った仔兎のように散っていき、二人の男が向かい合う。
「ちょっとした魔法ですよ。一枚良いですか?」と同じように答え、同じように手を構える。
今度は赤ら顔の男の身構える姿が写し取られる。『暮れなずむ赤』の真に迫る描写に男は目を見開くが先ほどの少女と違い、鼻を鳴らして立ち去る。
「くだらねえ」と言い残して。
「そうでしょうとも」
憮然としながらも魔法使いらしい風体の男は再び隊列に目を向けたが、門の方から衛兵の一人が走り寄ってくる。
「あんた、撮る者さん、言ってたよな? 海戦を描きたいとか何とか」
奇妙な男クルクスシスは丁寧に応じる。「ええ、大王国の軍勢がこの街に迫ってると聞いて、絵に残しておこうと思いまして。大王国の海軍を率いるはかの不滅公の親衛騎士、迎えるは都市国家ソルムゴットの英雄、ヴィリアの狂風、勇ましき庇護者。彼らの戦いは必ず時代の――」
「それだよ。バスカースさんだ、さっきのが」
「え!?」クルクスシスは背中を探すがバスカースはもういない。「あんな酔っ払ったまま戦えるんですか!? 船から落っこちませんか?」
「戦場では素面だよ」
とうとうバスカースを見つけた頃には日も沈み、夜風と海風の双子が競うように街の通りを吹き抜けて、温かな光を投げかける吊り燭台を揺らし、悪戯の成功を喜ぶようにささめきあっていた。
ある酒場は夜も昼と変わりなく陽気と怒気を入り混じらせつつ賑わっていて、海の男たちが下品な冗談と気の滅入る愚痴と迫る戦火の噂を肴に酒を浴びている。品のない誰かが悪罵を吐いて、気の短い誰かが真に受けて、殴り合いの喧嘩を始めても、誰も一切取り合わない。それがこの酒場の日常なのだ。
クルクスシスは大柄の男たちの排他的な視線とよく聞き取れない怒声に身を震わせながら目当ての人物を探す。
バスカースは酒場の端に追いやられ、今にも夢の断崖から落ちてしまいそうだった。大きく舟を漕ぎ、ぎりぎりの境目でちびりちびりと酒を舐めている。鼻の奥を突き刺すような酒気にクルクスシスはむせ、涙声で責めるように話しかける。
「ようやく見つけましたよ、バスカースさん。ぜひ僕のお願いを聞いて欲しいのですが。……聞いてますか? 聞こえますか?」
半ば酔夢の中のバスカースは蕩けた眼で、自分を覗き込む包帯に包まれたクルクスシスを見つめ返す。
「何しに来た? くだらねえ魔法使いが」
「朝にも見せましたよね? 覚えてますか?」
クルクスシスは背中に背負った大きな鞄を脇に下ろし、中から沢山の絵を取り出す。
『真白、真円の都』。『琥珀杉の森の奥の人の影』。『麗しの都黄金螺旋』。
他にもありとあらゆる風景や多様な人物が絵に収められている。どれもこれもが写実的で、本物と比べて遜色がない。
バスカースはただ見つめるだけで信仰を失った偶像のように何も言葉にしない。
「貴方の英名を耳にしました。そして大王国側の戦士たちの活躍も。迫る戦いは必ず大陸中に伝わり、歌にうたわれて風のように流離い、階級の別なく社交場の語り草となるでしょう。僕はそれを記録したいんです。誰もが知りたがる出来事を、誰もが知れる形にしたい」
「いらねえよ、記録なんて。勝ったか負けたか。それで十分だろう」少しずつバスカースの口が回り始める。「むしろ俺は何もかもを忘れたい」
突然バスカースが嗚咽し、クルクスシスは飛び退くが、しかし胃液の他には何も出てこなかった。
「聞きました。青の街市に娘さんが嫁がれていたとか」
「あいつは自分からここを飛び出していったんだ」バスカースは自嘲気味に呟く。「ごろつきばかりのメゴットが大王国に滅ぼされようが知ったこっちゃねえ。かあちゃんを泣かしやがって、馬鹿息子も海に沈んだ。もう何もねえ。次は俺だ。何が英名だ。違うな。忘れたいんじゃねえ、俺は忘れられたいんだ。だから俺は海で戦うんだ」
誰かが杯をぶちまけ、野太い悲鳴が聞こえ、そしてまた喧嘩が始まる。クルクスシスはびくりと驚き、できるだけ離れる。
「ほら、あれは良いのか?」とバスカースは震える指窓を作って嘲る。「かたや幽世の女神号の新入り、かたや陸仲仕組合長の倅の世紀の一戦だ」
「酒場と喧嘩はもう見飽きてしまいました」
「よく言うぜ。飽きても慣れてねえじゃねえか。そんなへっぴり腰で戦船に乗れるかよ。俺みてえになあ、堂々としなきゃなんねえ……」
「では当日は酒でも飲みますよ」
呂律の回らないバスカースの言葉を聞き取っている内にクルクスシスは何かに気づく。鞄の中の絵を漁り、目当てのものを見つけた頃には英雄バスカースは眠りに落ちていた。
クルクスシスは一つ溜息をつくと、絵と伝言を酒場の主人に頼み、夜の街へと立ち去る。
港では人々が慌ただしく立ち働いている。物騒な荷を積み込む沖仲仕。波濤を纏う渡し守神に加護を求め、祈りと好物を捧げる神官。近い未来に掴み取る栄誉を見つめる戦士たちと戦士たちを鼓舞するべく背負うものを思い出させる将軍。無数の櫂が伸びる軍船が武者震いでもするように波に揺れている。そして白兵戦用の剣を提げた戦士たちが船へと乗り込んでいく。
それを指窓の中から眺めるクルクスシスのもとにバスカースがやってきた。今日ばかりは酔っていない。赤くない顔にしっかり覚醒している青い目は熾烈な戦いを既に見据えている。
「一体お前は何者なんだ?」バスカースは改めて怪しげな魔法使いを見極めんと問いかける。
「それに関しては僕も知りたいところです。記憶も記録も何もないので」
クルクスシスの言葉を少しばかり検討し、バスカースは懐から一片の絵を取り出して見せる。そこには青い目の少女の姿が写し取られていた。
「娘にそっくりだ」とバスカースは懐かしむように呟く。
「そして貴方にも。もしかしたらお孫さんなのかもしれません」
「ああ、この毛皮、俺が獲った狐をかあちゃんが繕ったんだ。あいつがこれを持って行ったとは知らなかった」
「では……」クルクスシスはバスカースの様子を見て察する。「まだ会ってあげていないんですか? 親戚も伝手もいない避難民たちの処遇はまだ決まっていないそうですよ? マシチナ有数の街です、子供に関してはそうそう悪いようにはならないでしょうが。それはともかく貴方が、一人きりの身内が迎えなくてはならない」
バスカースの目が泳ぐ。決断を躊躇っている。「駄目だ。今から戦なんだぞ。俺が死ねば、この子はまた家族を失うことになる。それなら知らないでいた方が良い。そうだろ?」
「どうでしょうね。私には家族がいたことはないですし、たぶんこれからもいません。貴方が決めるべきことです。ただ、これだけは言える。貴方が決断しなくてはならないのは貴方の人生ではなく、彼女の人生です」
バスカースは軍船を見つめ、帰郷の祝福を施された剣の柄に手を置く。
「逃亡兵に孫は養えんし、俺なしにこの戦いは勝てねえのさ。クルクスシスだったか。船に乗りたいんだったな。一つ約束してくれ」
太陽は大きく傾き、残日に縁取られた海鳥の鳴き声も静まりつつある。喜びと悲しみを携えた人々はほとんど帰路につき、海風さえも黙祷を捧げている。
クルクスシスは一人、港に佇み、幾枚もの手のひら大の絵を見つめる。
『船を穿つ衝角』。『弧を描く焔』。『波駆ける脚』。『迫る帆群』。『闘志の衝突』。『海惑わせる魔』『船唆す魔』。『白剣の穂群』。『血染め』。『雄叫び』。『祈りを捧げる』『栄光を背に、栄誉を胸に』。『沈む』。
戦はソルムゴットの、そしてマシチナ群島国の勝利に終わった。海を覆う両軍の戦いは勢い盛んに、しかし互角に消耗した。趨勢の傾かないまま昼を過ぎた頃、南の水平線から島嶼国の援軍が姿を現し、ソルムゴット沖の海戦の潮流が定まった。多くの船と戦士を失った大王国の海軍はメゴット市へと引き換えした。
それらの何も海に残されてはいない。陸と違って、海は何も痕跡を残さない。嵐が吹けども、戦が燃えども海は全てを忘れてしまうのだった。
クルクスシスは絵を見つめて呟く。
「約束通り、遺族年金の手続きはお任せください。そして約束通り、貴方のことはお孫さんに黙っておきましょう。いずれ金の出所が分かる年齢になればばれることだと思いますし、それにこの大量の写真は僕よりもずっと雄弁ですけどね」
『暮れなずむ赤』。『酔いどれの果て』。『港にて、はにかむ男』。『迎え撃つ咆哮』。