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さっきの話の名残。
今度は太宰の「相手」でやってみましょうか ニヤリ
窓一つない、奇妙に清潔な立方体の部屋。 そこに集められた三人の男たちは、一様に険しい、あるいは困惑した表情で壁の文字を見つめていた。
『恋人の話を、惚気と共に語り尽くさねば出られぬ部屋』
「……はあ? 恋人だァ? ふざけやがって。誰がそんなマヌケな真似……」 最初に毒づいたのは、黒い帽子を直し、不機嫌を隠そうともしない小柄な男、中原中也だった。 「つーか、なんで俺がこんなところで、野郎二人と並んで座ってなきゃならねぇんだ」
「……同感だ」と、隣で黒い外套を纏い、ゴホゴホと咳き込んだ少年――芥川龍之介が、鋭い視線を投げ返す。「僕(やつがれ)には、そのような俗世の戯れに興じる時間は微塵もない。僕が語るべきは、あの方からの言葉のみ」
二人の殺気立った視線を受け流し、最後の一人、ベージュのコートを羽織った男――織田作之助が、顎をさすりながらぽつりと呟いた。 「出られない、というのは困るな。明日、子供たちにカレーの材料を買って帰る約束があるんだ。……仕方ない、順に話していくか」
「おい、アンタ正気かよ」と中也が呆れたように言ったが、織田のあまりにも淡々とした様子に、毒気を抜かれたように腰を下ろした。
「……まずは、私からでいいか」 織田は、遠い目をして語り始めた。 「私の……その、相手は。ひどく寂しがり屋で、同時にひどく死にたがりの男だ。いつも『この世界は酸化した世界だ』なんて言っては、バーのカウンターで氷を転がしている。だが、彼が私の書く小説の結末を、誰よりも楽しみにしてくれると言った時……私は、彼をこの世に繋ぎ止める何かに、自分がなれるかもしれないと思ってしまった」
中也がふん、と鼻で笑う。 「死にたがりだと? 救えねぇな。そんな軟弱な野郎のどこがいいんだよ」
「いや」織田は穏やかに首を振った。「彼は頭が良すぎるんだ。世界のすべてが見えてしまうから、退屈で仕方ないんだろう。一度、彼が私の好物の激辛カレーを勝手に食べて、涙目でのたうち回っていたことがあった。あの時の、必死に生きているような、子供じみた表情は……今思い出しても、少し愛おしいと思う」
「……カレーで泣くような男が、貴殿のような落ち着いた男の隣にふさわしいとは思えぬが」 芥川が冷ややかに口を挟む。 「僕の想い人は、貴殿の語るような柔な方ではない。あの方は、絶対的な『闇』であり、漆黒のカリスマだ」
芥川は、熱に浮かされたような瞳で語り出した。 「あの方は厳しい。僕の弱さを許さず、その言葉は鋭い刃となって僕の肺腑を貫く。あの方に認められるためなら、僕は命すら惜しくない。一度だけ……あの方が僕の肩を叩き、『強くなったな』と、たった一言だけ告げてくださった。その瞬間の、心臓が爆ぜるような歓喜。あの方の冷酷さの中に潜む、一筋の導き……。それこそが、僕にとっての至高の愛なのだ」
中也は、天井を仰いで盛大なため息をついた。 「ハッ、どいつもこいつも、とんだ依存体質だな。一方は世話焼きの保護者で、もう一方は心酔しきった狂信者かよ」
「なら、あんたはどうなんだ、中原。あんたの相手はさぞかし立派な女なんだろうな」 織田が純粋な好奇心で尋ねる。中也は顔を赤くし、帽子を目深に被り直した。
「……女じゃねぇよ。野郎だ。最悪な、青鯖みてぇに生白い、包帯無駄遣い装置だよ。あいつは、一言で言えば『クソ野郎』だ。俺が大事にしてるワインのラベルを剥がすわ、バイクに砂糖をぶち込むわ。いっつも涼しいツラして俺を指先一つで操りやがって、本当に虫唾が走る」
「……それは、恋人と言えるのか?」織田が不思議そうに首を傾げる。
「言えるんだよ! クソッ!」 中也は床を蹴った。 「あいつが戦場で『汚濁』を解放しろって言うなら、俺は迷わず地獄に飛び込む。俺の命の最後の一線を握っていいのは、世界中でアイツだけだ。……ムカつくことに、あいつは俺がいつ、どのタイミングで限界を迎えるか、本人の俺より正確に把握してやがる。信頼なんて高尚なもんじゃねぇ。ただ、あいつが隣にいねぇと、俺は力を出し切ることすらできねぇんだ。……あのアホみたいな寝顔を見てると、たまに『こいつがいない世界は、随分と静かすぎるだろうな』なんて思っちまうのが……一番腹が立つんだよ」
部屋が、静まり返った。 三人はそれぞれ、自分たちが語った「相手」の姿を脳裏に思い浮かべていた。
「……死にたがりの、知性的な男」 「……冷酷で、絶対的な導き手」 「……嫌がらせの天才で、唯一の相棒」
「全く、バラバラだな」と中也が笑った。「だが、どいつもこいつも『厄介な男』に惚れちまったって点だけは共通してるみてぇだ」
「ああ」と織田が頷く。「愛の形は違えど、その男たちが我々の人生を狂わせているのは間違いない」
「……あの方に、このような話を聞かれたら、僕は殺されるだろう」と芥川が短く咳をした。
その時、カチリと部屋の鍵が開く音がした。壁の文字が消え、扉がゆっくりと外側に開いていく。
「お、やっと出られるか」 中也が立ち上がり、外套の埃を払った。 「じゃあな、二人とも。お互い、その『恋人』とやらを大事にしやがれ。俺はこれから、そのクソ野郎の自殺を止めに行かなきゃならねぇんだ」
「私もだ」と織田が歩き出す。「彼がバーで待っているはずだ。また新しい蟹缶の開け方を開発したと言っていたからな」
「僕も……あの方の影を追わねばならぬ」 芥川も、足早に扉へと向かった。
三人は、互いの背中を見送る。 彼らが、自分たちの愛する男がすべて「太宰治」という同一人物であり、今この瞬間も、場所を変え、姿を変え、彼ら三人の心を完璧にかき乱していること。 そして、その「太宰治」本人が、どこかのバーで三人の様子をモニター越しに眺めながら、「ひどいなぁ、みんな。私の悪口ばっかりだ」と楽しげにワインを回していることなど、知る由もなかった。
扉が閉まる瞬間、中也がふと呟いた。 「……しかし、アイツら、幸せそうに話してたなぁ。まあ、俺の太宰ほどじゃねぇけどよ」
同時に、織田も、芥川も、同じことを確信しながら、それぞれの「彼」が待つヨコハマの闇へと消えていった。
「遅かったじゃないか、中也。待ちくたびれて首が三センチは伸びてしまったよ」
奇妙な部屋から解放され、ヨコハマの喧騒に戻った中原中也を待っていたのは、電柱に背を預けて暇そうに包帯を指で弄ぶ、砂色の外套を纏った太宰治だった。
「……チッ、手前かよ」 中也は帽子を目深に被り直し、部屋での「惚気」を思い出しそうになるのを必死に抑え込んだ。
「何だい、その顔は。まるで私を想って、熱烈な愛の詩でも自作していたような顔だね。あるいは、私の不在に寂しくて涙を流していたのかい?」 「誰がするか、クソ鯖! ……おい、太宰。手前、もし俺がいなくなったらどうする」
不意に投げかけられた問いに、太宰は瞬きを一つし、それから三日月のような薄い笑みを浮かべた。 「そうだねぇ。君のバイクをすべて海に沈めてから、君の遺した高級ワインを全部安物のジュースと割って飲み干すよ。……でも、その後はきっと、退屈で死にたくなるだろうね。君という玩具のない世界なんて、酸化した空気と同じだ」
太宰の手が、中也の首元に軽く触れる。 「君の命を終わらせる権利があるのは、世界で私だけだ。忘れないでおくれよ、相棒」 中也は乱暴にその手を振り払ったが、その表情には先ほどまでの苛立ちはなく、どこか満たされたような、諦めにも似た信頼が滲んでいた。
「遅いよ、芥川くん。私の忍耐力は、君の肺活量と同じくらい微々たるものだと言わなかったかい?」
廃倉庫の闇の中から響く声は、剃刀のように鋭く、冷徹だった。黒い外套を翻し、現れたのはポートマフィア時代の太宰治。芥川龍之介はその場に膝をつき、激しく咳き込みながらも、心酔しきった瞳を上げた。
「……申し訳、ございません。太宰さん。僕(やつがれ)は、愚かにも……」 「言い訳は聞きたくないな。君が何をしていたか、誰といたか、そんなことはどうでもいい。重要なのは、君が私という『壁』を越えるために、今この瞬間に命を燃やしているかどうかだ」
太宰は芥川の顎を、冷たい指先で掬い上げた。そこには慈悲など微塵もなく、ただ圧倒的な支配と、それゆえの濃密な関係性だけが存在していた。
「君に安らぎなど必要ない。君を形作るのは、私への憎悪と、認められたいという飢餓感だけだ。……いいかい、芥川くん。君を救うのは光ではない。私が与える、底なしの絶望だ」 「……はい。太宰さん。貴方こそが、僕のすべてです」
芥川の瞳に宿る熱狂を見て、太宰は満足そうに口角を上げた。それは、他者が決して介入できない、師弟という名の共依存だった。
「ああ、織田作。戻ったんだね。今日はなんだか、君が遠くへ行ってしまいそうな予感がして、少し怖かったよ」
いつものカウンター、いつもの席。グラスの中の丸い氷を指で回しながら、太宰は寂しげな子供のように笑った。織田作之助は、黙ってその隣の席に腰を下ろした。
「ああ。少し、不思議な場所に迷い込んでいた。だが、そこでもお前の話をしていた気がする」 「私の? それは光栄だね。どんな悪口を言ったんだい?」 「いや……お前がいれば退屈しないという話だ」
織田の言葉に、太宰は一瞬だけ表情を強張らせ、それから泣き出しそうなほど優しい顔をした。 「織田作。君はいつも、私に居場所を与えてくれる。この、呼吸するのも苦しいほど退屈な世界で、君だけが私を『人間』の側に引き留めようとしてくれるんだ」
太宰は、自分のグラスを織田のグラスに、微かな音を立てて当てた。 「もし君がいなくなったら、私はきっと、自分を止める術を失ってしまう。だから、お願いだ。私を置いていかないでおくれ」 「……ああ。カレエを食べる約束もまだ残っているからな」
織田の不器用な答えに、太宰は心底幸せそうに目を細めた。そこには、殺意も執着も超えた、魂の安息があった。