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校舎裏の非常階段に通じる廊下。薄暗く、すでに人気はなかった。
遥は自販機で水を買い、キャップも開けずに制服のポケットにねじ込む。
そのまま階段へ足を向けようとしたところで──
「待てよ」
背後から声がかかった。
振り返らずとも、誰の声かはわかっていた。
遥は立ち止まったが、顔は向けない。
「おまえ、ああやって……毎日、“見せてる”けどさ」
言葉の切れ目が、ひどく不器用だった。
「楽しいわけ、ないだろ。あんなの……」
「“楽しい”とか、“辛い”とか──関係ねぇだろ、ああいうのは」
遥が低く呟く。
「“そうしろ”って求められてるから、やってるだけだよ。 期待されてんだ。だったら応えなきゃ。ちゃんと、いい子に」
くぐもった声。どこか笑っていた。
「でも、おまえ、前は──」
「前は?」
遥が振り向いた。
その目は笑っていない。
どこまでも冷えたままだ。
「“おまえはちがう”って思ってたんだろ。
“あいつらとはちがう”“おれだけは気づいてる”って」
「……」
「勝手な理想、押しつけんなよ。
“お前には壊れててほしくなかった”って顔してんの、キモいから」
日下部の拳が、わずかに震える。
殴りたい衝動でも、後悔でもなく──言葉にできない歪な感情の熱。
「玲央菜だって……」
その名が出た瞬間、遥の目が一瞬だけ揺れた。
「……なんだよ」
「……あいつだって、おまえに“壊された”って思ってた」
「は?」
遥の笑いが、皮膚の下を掻きむしるように鋭かった。
「違ぇよ。玲央菜は、自分が壊した側だろ。 俺、あいつに踏まれて、舐めさせられて、何も返さねぇまま、 ずっと“物”やってただけだぞ?」
日下部は、遥を睨んだ。
「それでも、おまえが時々──目を動かすたび、
あいつは怯えてたんだよ。……自分が“見られてる”って気づいた瞬間、
“支配してるつもりが、支配されてたかもしれない”って気づいたんだ」
「……意味わかんねぇし」
「おまえ、あのとき……笑ってただろ」
「──ああ、あれな」
遥が笑った。
「泣いてる奴がいて、びっくりしただけだよ。
泣く意味も理由も、全然わかんなかった。……俺、なんかしたか?」
「それが、“した”んだよ」
沈黙が落ちる。
「……玲央菜は、壊れる自分を、あんなふうに見られたくなかった。 でもおまえは、それすら“見抜いた”顔してた」
「……ちがう。何も見抜いてねぇよ」
遥は、静かに吐いた。
「俺、ただ──“どこにもいなかった”だけだよ。 あいつに殴られてる時も、舐めさせられてる時も。
ぜんぶ、誰かの物語の中にいるだけだった」
「でも──」日下部が一歩、詰める。
「おまえ、それでも、生きてた。
玲央菜はそれが、耐えられなかったんだよ。
“殺したつもりが、生かされてる”って──おまえに、負けた気がしたんだ」
遥の顔が、微かに歪んだ。
「……だったら、おまえが慰めてやりゃよかったじゃん。
あいつのこと、好きだったんだろ?」
「──……っ」
日下部の拳が揺れ、だが振り下ろされることはなかった。
代わりに言葉が、喉の奥から漏れた。
「……おまえだけは、こんなふうにならないって思ってた。
違う形で、壊れていくんだって……勝手に、思ってた」
「勝手だな」
遥は、かすれた声で言った。
「だから、今の俺は──おまえの理想に合わないんだ。
ほんとはガッカリしてんだろ、“そっち側”かよ、って」
「違う」
「ちがくねぇよ」
遥は、笑った。
「俺が“おまえの思ったとおり”に壊れなかったから──
今こうして、“説得しよう”としてんだろ」
「……じゃあ、どうしてほしいんだよ」
日下部の声が、少しだけ震えた。
遥は、静かに、ただ一言。
「何も言うな」
それは、懇願ではなかった。
命令でも、拒絶でもなかった。
──ただ、切り捨てるような“諦め”の声だった。
そして遥は、背を向ける。
歩き出したその背中に、日下部は──手を伸ばさなかった。
そのかわり、胸の奥にずっと張りついていたものが、静かにうごめいた。
それは、玲央菜に向けたものと、よく似た情だった。
そして、同じくらい歪んでいた。