コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
翌朝、鏡に写った自分の顔を見て、私は愕然とした。瞼が腫れぼったい。目も赤い。
会社、行きたくないな――。
そうは思うが仕事が待っている。出張の打ち合わせもあるだろう。
少しでもマシに見えるようにと瞼を冷やし、いつもは流している前髪をすとんと下ろして、重い体を引きずるようにしながら出社した。
「おはようございます」
朝の挨拶をしつつ自分の席に向かおうとした時、太田も同じようなタイミングで出社してきた。
「笹本さん、おはよう」
昨夜のことなどなんでもなかったかのように、爽やかな顔をしている。
私は目を伏せ小声で挨拶を返した。
「おはようございます」
自分の席につく時に拓真と目が合った。その顔を見たら涙がこみ上げてきそうになり、それをごまかすために頭を下げながら挨拶する。
「北川さん、おはようございます」
「おはようございます。今日はいい天気ですね」
拓真の穏やかな声に少しだけ心が落ち着く。
課長の田中が出社してきた。課の面々に挨拶した後、彼は私と拓真を呼ぶ。
「これから少し時間いいかな?出張のことで打ち合わせしたいんだけど」
私と拓真はそれぞれに、田中に頷いた。
「はい。分かりました」
「じゃあ、第一会議室に行こうか」
椅子に座る暇もなく廊下に向かう田中の後を追うようにして、私と拓真はオフィスを出た。
当日のスケジュールや支社での動きを確認した後、田中は少しだけ申し訳ないような顔をして言った。
「あとね。支社長からのお誘いでさ。せっかくだから、夜、支社の皆んなと懇親会なんてどうかって言うんだ。そうなると、日帰りは難しいから向こうで一泊することになるんだけど、二人とも都合はどう?もし難しいなら丁重に断っておくけど」
田中の言葉に、拓真は迷うことなく頷いた。
「私はまったく問題ありません。支社の方とこういう機会を持つのはいいことだと思いますし」
拓真の言葉を受けて私も頷いた。
「私も大丈夫です。確かに北川さんの言う通り、こういうことでもないと、支社の皆さんとの交流の機会がありませんから」
「そうか。それじゃあ、そういうことで先方にも伝えておくよ。当日は二人ともよろしくね」
「はい」
「あと、これなんだけど。向こうに行ったら、こういう点を特に教えてきてほしいんだよね。簡単にチェックリストと説明文的なやつ作っておいたから、持って行ってくれる?」
「分かりました。なるほど……。結構ありますね」
苦笑する私に、田中もまた苦笑いを浮かべた。
「だよね。これを全部支社でしっかりとやってきてくれれば、こっちの仕事もスムーズに捗るんだけどねぇ。……悪い、先に戻るよ。部長に呼ばれてたんだ」
「はい、どうぞ」
田中がバタバタと会議室を出て行ったのを見送って、私は椅子を戻して照明を消した。
「私たちも戻りましょうか」
ドアに手をかけた時、拓真がぼそっと言った。
「碧ちゃんとの出張、仕事だけど楽しみだなんて言うのは不謹慎かな」
そう言われて嬉しかったが、私はあえて真面目な顔をする。
「仕事で行くんですよ」
拓真はくすっと笑う。
「もちろん分かってるよ。ところでさ」
拓真が身をかがめ、私の顔をのぞき込んだ。
「あの後帰ってから、ちゃんと寝たのか?目が赤いようだし、なんだか瞼も少し腫れているような気がするんだけど……」
私は慌てて顔を伏せて、なんとかひねり出した理由を口にする。
「えぇと、これは、あれだと思う。寝る前にお水をたくさん飲んじゃったからなのと、ちょっと動画とか見ちゃって、たぶんそれで……」
拓真は疑わしそうに、しかし心配そうな顔を見せる。
「本当にそうならいいんだけど……。何かあったら、いつでも俺に話してくれよ。絶対に力になるからね」
何かを察しているのだろうかと、拓真の言葉にどきりとした。しかし彼に心配をかけるわけにはいかないと、私は明るい表情を作った。
「ありがとう。その時はそうさせてもらうね。とりあえず、出張の日はよろしくね」
私の笑顔を拓真はしばらく疑わしそうな目で見ていたが、諦めたようにふっとため息をついた。
「今の状態では、甘えてはもらえないのかな」
「え……?」
「いや。碧ちゃんにとっての俺はまだ彼氏じゃない。ただの同僚でしかないから、甘えていいよって言っても、君は甘えてはくれないんだろうなって思ってさ。分かってはいても、ちょっと寂しいな」
優しい声で言われて、今すぐすべてを打ち明けて彼に縋りつきたくなった。でも、それはできない。気持ちはすでに拓真にあるとは言え、また、そのことを彼も知ってはいるけれど、本当の意味で私はまだ彼の彼女ではない。だから甘えたい気持ちにブレーキをかけて、拓真に言葉を返すことはしないまま、ただ微笑んだ。
「そろそろ戻りましょ」
私は彼を促して会議室を出て、オフィスに足を向けた。
この日、少しの残業をこなしてからパソコンの電源を落とし、ちらりと経理課の様子を伺うと、太田の姿が見えない。今日はもう帰ったのかとほっとしたが、油断はできないと思い直す。周りの皆んなに帰りの挨拶をしてから、ロッカールームへ向かう。そこで恐る恐る開いた携帯には、特に何の通知も入っていなかった。それでもまだ安心できず、身構えたままロビーに降りて行く。そこにも太田の姿はなく、そこでひとまず肩の力を抜いた。
今日も本当に来るのだろうか――。
帰路につく足取りが重くなる。
怖い。でも別れ話をするためには電話ではなく会った方がいいだろうしーー。
矛盾するそんな葛藤を抱きつつ、アパートの部屋の前にたどり着く。
「いない……」
太田に会わずに帰って来られたと胸をなで下ろし、バッグから鍵を取り出す。鍵を開けてドアノブに手をかけた。ドアを開けたその時、間近で声がして背筋が凍りつく。
「お帰り。残業?」
声がした方にぎくしゃくと顔を向けた。太田だった。
彼はにこやかな顔で私の傍までやって来て、じりじりと後ずさる私を捕まえるようにその腕を私の腰に回した。
「何をそんなに驚いてる?俺に聞いてほしい話があるんだろ?夕べ言ってたじゃないか。だから来たんだ。上がるよ」
太田は私の返事を聞くことなくドアを開けて、私を引きずり込むようにしながら玄関に入った。
ドアを閉めると鍵をかけ、私が止める間もなく部屋に上がり込んだ。
「待って!部屋に上がっていいなんて言ってない!」
太田は肩越しに私を見る。
「ふぅん?話はいいのか?俺はこのまま帰ったって構わないけど。俺の方には話はないから」
そう言って太田は帰るそぶりを見せた。
この機会を逃したら、また別れるきっかけを失ってしまう。そう思った私は彼を引き止めてしまった。
「待って!分かりました。話を聞いて下さい」
こうして、テーブルを挟んで太田に向き合って座り、私は別れたいと話を切り出した。
けれど、やはり話にならなかった。太田は別れないの一点張りで、話は堂々巡りだった。そのうちに痺れを切らしたように彼は私を押し倒し、どうしてこれほどまでにと思うほど、昨夜以上に執拗に私を抱いた。やめてと訴える私の言葉に耳を貸さず、彼は私の自由を奪い、噛みつくような口づけで私の体中に新たなあざを残した。
この状況は予想がついたはずだった。しかし、この機会を逃したら、と焦ってしまった。これはその結果なのだと、私は声を押し殺しながら心の底から後悔していた。
太田が帰り支度を始めた。
私は所々痛む体を起こし、彼の背中に向かって、勇気を振り絞りながら再び告げた。
「もう今日限り、あなたとこんなふうに個人的には会わない。別れる」
太田はゆっくりと振り向いた。
「その話、まだ終わってなかったのか」
彼は私の頬に手を伸ばし、指先でそっと撫でながら甘い声で言う。
「どうしてそんなこと言うんだよ。俺は笹本を愛してる。お前だってそうだろ?愛し合ってる俺たちが別れる理由はどこにあるんだ」
「理由?私はもうあなたを愛していない。あなたの束縛が嫌。こんな暴力的な愛し方も嫌。もう耐えられない」
「束縛?それはお前が大切だからだ。それに暴力的だというけど、笹本はいつもそれでも達してるじゃないか。気持ちいいからだろ」
「違う。心から気持ちいいだなんて思ったことはない。愛されているとも思えなかった」
「なんだよ、それ」
太田の声が低くなり、私はびくりと肩を震わせた。
「なぁ、笹本」
太田は猫なで声で言い、怯える私の両肩をつかみベッドの上に押し倒した。
「北川の方がよくなったって、正直に言えば?」
彼の両手が私の首に伸びた。
「くっ……」
喉の辺りをじわじわと締めつけるように力を入れながら、彼は私を見下ろしている。
その手から逃れようともがいたが、外そうにも彼の手はびくともしない。
苦しい――。
霞む視界の中、彼の頬にうっすらと笑みが浮かぶのが見えて恐ろしくなった。
「だめだよ。笹本は俺の彼女なんだ。いったい何度言ったら分かってくれるんだろうな。お前を他の男になんて絶対に渡さない」
そう言って、ようやく太田の手が私の首から離れた。
途端に咳き込み、私は体を横にした。その背中を太田が優しい手つきで撫でる。
「明後日から出張だよな。明日は出張前で色々準備があるだろうから、来るのはやめておくよ。出張は一泊だったな。夜には電話するから、ちゃんと出てくれよ。もちろん仕事の邪魔にならないようにするから安心して。笹本がこっちに戻った夜にまた来る」
たった今私にしたことなど忘れたかのように、太田は優しい声でそんなことを言う。ちらと目に入ったその顔は、付き合うより前、そしてつき合って最初の頃にはよく見せてくれていたものだった。それなのにどうしてこんなことになってしまったのかと、ひどく哀しくなる。涙をこぼす私に、彼はキスを一つ落とした。
「おやすみ」
優しすぎる声でそう言って、彼は帰って行った。
私はその後ろ姿を涙に霞んだ目で見送った。再び軽く咳き込んだ時、今自分の身に起こったことがよみがえり、全身に鳥肌が立つ。首に残る太田の手の感覚にぞっとして、自分自身を守るように体に毛布を巻きつけた。