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第2部 デューデリジェンス
第6章 全部です
十一月中旬の月曜、午前九時。
勇斗は、弁護士と会計士とアナリストを連れて、Lueurの入るビルの二階に立っていた。
「おはようございます。本日から、よろしくお願いします」
出迎えたのは、仁人だった。
紺のスーツに、きっちり結んだネクタイ。目の下に、薄く影がある。昨夜も、遅くまで起きていたのだろう。
「会議室を、用意してあります」
案内された部屋には、窓際に長机が二つ並び、人数分の水とメモ用紙が置かれていた。ホワイトボードは、拭き上げられている。
「データルームのアクセス権を皆さんに発行しました。こちらが手順です」
仁人は、A4一枚の紙を配った。
データルーム。会社の重要書類を、買い手が閲覧できるように電子的に集めた、資料室のことだ。契約書、決算書、社員の雇用契約、特許や商標。誰が、いつ、どの書類を開いたかが、すべて記録に残る。ダウンロードや印刷はできない。売る側は、見せる範囲を細かく決められる。買う側は、その範囲の中で会社の中身を調べる。
「閲覧範囲は、階層ごとに分けています。見たい書類が範囲外の場合は、私に申請してください」
「承知しました」
勇斗は、画面を開いた。フォルダは、契約、財務、人事、知財と綺麗に分かれ、ファイル名の規則まで揃っている。
「これ、やばいっすね」
隣でアナリストが、小声で言った。
「やばいな」
決算書の注記を追っていた会計士が、感心したように呟いた。
「注記まで、揃ってますね。三年目の会社の資料じゃないですよ、これ」
整っている、というより、整いすぎている。勇斗はそう思った。
契約フォルダを開く。創業から現在までの契約書が、通し番号で並んでいた。C-001、C-002、と順に下っていく。
C-015の次が、C-017だった。
一つ飛んでいる。日付は、創業から十か月目の前後だった。初回面談で見た推移表の、会社の水位が底をついた月と重なっている。
「仁人さん、契約書の番号が、C-016だけ抜けているようなんですが」
会議室の隅にいた仁人が、顔を上げた。
「取りやめた契約です。締結前に話が流れました。欠番にしてあります」
淀みはなかった。事実なのだろう。通し番号を振る会社では、流れた契約が欠番になることは珍しくない。
「そうでしたか」
勇斗は頷いて、付箋に「C-016 欠番」と書き、モニターの縁に貼った。それだけだった。今日は、それだけでいい。
昼過ぎ、勇斗は手土産を持ってフロアに出た。
近所の菓子店の焼き菓子を、人数分。アトリエの職人たちには、作業中でも食べやすい甘さ控えめのものを別に選んでおいた。
「差し入れです。調査の間、お騒がせします」
「あ、ありがとうございます」
経理担当が、恐縮して受け取った。勇斗は、社員の名前をもう全員覚えている。入口の座席表を、朝のうちに頭に入れていた。名前で呼ぶと、警戒は三割ほど下がる。
「経理は、お一人なんですね」
「はい、私一人で。……確認は、全部COOにお願いしていて」
「全部?」
「支払いも、請求の確認も、決算の前後も。細かいところまで、見てくださっていて」
広報担当が、隣から口を挟んだ。
「取材の原稿確認も、仁人さんです。契約書の最初のチェックも」
「給料日の前日にも、必ず声をかけてくれますよ」
アトリエの職人が、焼き菓子を摘みながら笑った。
「『振り込みは済んだ。安心して作ってほしい』って。あれ、地味に助かるんです」
勇斗は笑って、メモを取った。
「COOって、何をする人なんですか? 肩書きだけだと、ちょっとイメージが湧かなくて」
三人は顔を見合わせ、同時に言った。
「全部です」
勇斗は、声を出して笑った。それから、頭の中で整理した。
COO。最高執行責任者。日々の事業運営を回す責任者のことだ。お金の責任者はCFOと呼ぶが、三十人の会社では、専任を置かないことが多い。COOが、その役割まで兼ねる。仁人は、財務も、法務も、労務も、広報の管理も、一人で持っていた。名刺の肩書きより、実際の守備範囲のほうがずっと広い。
「じゃあ、社長は?」勇斗は聞いた。「舜太さんは、何をされているんですか」
「外の人です」と、広報担当が即答した。「営業と、取材と、海外のバイヤーさん。会社の顔ですね。あと、みんなの機嫌」
「柔太朗さんは?」
「作る人です」と、職人が答えた。「デザインの最終確認は、全部、柔太朗さん。あの人が『いい』って言ったものしか、世に出ないです。一度、『違う』って言われて、三日かけた試作を全部やり直したこともあります。でも、やり直したほうが絶対に良かったんです」
外の舜太、中の仁人、作る柔太朗。三人の役割は、綺麗に分かれていた。分かれすぎている、と言ってもいい。
三人とも、代わりがいなかった。こういう状態を、属人化という。仕事が特定の人に偏っていることだ。
買う側にとっては、リスクになる。
もう一度、契約書のフォルダを開く。署名欄は、ほとんどが仁人の名前だった。代表取締役である舜太の署名は、大きな契約に限られている。署名権限。社長に代わって、契約書に署名できる権限のことだ。日々の契約は、仁人が一人で結んでいる。
便利で、危うい。勇斗は、報告の下書きに記載した。
「キーパーソン:柔太朗(創作)、舜太(対外)、仁人(管理・契約)」
「勇斗さん」
背後から声がした。
仁人が立っていた。腕を組むでもなく、ただ、真っ直ぐに。
「社員への聞き取りは、窓口を通してください」
「雑談のつもりでした」
「雑談も、です」
穏やかな声だった。ただ、線を引く声だった。
「調査中の社員への接触は、私を通す。最初の取り決めに書いてあります」
「失礼しました。以後、気をつけます」
勇斗は、素直に頭を下げた。素直に下げて、それから笑って、手に持っていた紙コップを差し出した。
「これ、差し入れです。ブラックで」
「……なんで、ブラックだと」
「勘です」
半分は嘘だった。前日に、広報担当の社員からそれとなく聞いていた。仁人が、仕事中はブラックしか飲まないこと。
「あ、そうですか。」
仁人は平らな声で受け取り、口をつけず、机の端に置いた。
手を伸ばす動作が、少しだけぎこちなかった。
「調査の範囲は、会社に関係のあることだけにしてください」
「会社に関係のあることなら、聞いていいんですよね」
「……ええ」
仁人は、そう答えて踵を返した。背中が、まっすぐだった。まっすぐすぎる、と勇斗は思った。
机の端に置かれた紙コップからは、まだ湯気が上がっていた。手をつけられないまま。
帰りのタクシーで、勇斗は窓に額を寄せた。
夕方の街が、後ろへ流れていく。隣で後輩が、資料をまとめている。
「あーー…」
小さく、声に出た。
「どうしたんすか」
「いや、こっちの話」
三つ、整理する。
一つ。資料が、整いすぎている。
二つ。契約書の番号が、一つ飛んでいる。飛んだ日付は、会社の水位が底をついた月と重なっている。
三つ。会社の全部を、一人が持っている。
三つを並べると、一本の線になりそうでならなかった。ただ、全部を一人で持つ男が、これまでに一度も、一人で何かを決めなかったはずがない、と思った。
決めたことが、あるはずだ。誰にも言わずに。
ふと、机の端に置かれたままの紙コップを思い出した。口をつけられなかったコーヒーは、今頃冷めているだろう。
それを知りたいのは、契約書の欠番を埋めたいだけだ、と勇斗は自分に言い聞かせた。
仕事の穴埋めだ。
窓ガラスに映った自分の顔が、少しだけ笑っていた。
のんの
410
こりん
602
レタス
5,005
#ご本人様には関係ありません
狐十@アイコン変えた!!
14,368
コメント
1件
お疲れ、るりさん。第7話読んだわ。 めちゃくちゃ引き込まれた…「全部です」のシーン、鳥肌立ったよ。三人の役割が完璧に分かれてて、でも仁人ひとりに全部が偏ってる感じ、すごくリアル。契約書の欠番とか、コーヒーに手をつけられない仁人の描写とか、細かい伏線が効いてて「次、どうなるの!?」ってなった🔥 脳筋じゃない調査系主人公、めっちゃ好み。続きが待ちきれないわ!