「クーズーちゃん!」
「うわっ!?」
そんな折(お)り、葛葉の背後から覆いかぶさるように接してきた人物があった。
ちょうど抱きすくめられる格好であるが、どうにか首を捩(よじ)って確認すると、これが一向に見覚えのない女性だ。
「はぁ~! クズちゃんいい匂い~」
「ひぃ……?」
間近にのぞむ大きな瞳は、完熟した果実を詰め込んだように甘々と蕩(とろ)けており、全身から噎(む)せるような酒気が漂っている。
かくも酩酊さえしていなければ、利発そうな顔かたちに、ドレッシーな赤縁メガネが印象的な美人である。
先方はどうやら、こちらを見知っている様子だが。
「あの、どちらさん?」
「えぇ~? ひっど~い!」
無調法に投じたのも悪かったが、女性の反応は余りと言えばオーバーで、酔っ払いとの付き合い方というコンスタントな命題を、ただちに温習せざるを得ないものだった。
気を改めて、なるべく刺激しないよう聞き直す。
「ごめんなさいね? あなたは」
「あたしよあたし! カ・ヤ・ちゃん!」
「は?」
互いの頬が触れ合うような距離で、彼女はキラキラと目を輝かせた。
頭突きでも噛ましてやろうかと、危うい胆気が顔をのぞかせたが、既(すんで)に思い止(とど)まった。
「ちょい待ち。 なんて?」
「だーかーらぁ、カ~ヤ~ちゃん!」
「ひょっとして、虎石っさんの?」
「ザッツラ~イ!」
どこかで聞いたことのある声だとは思ったが、なるほどそういう事かと得心した。
それにしても、妙な気分だ。 初めて会った気がしないのは当然として、ちょうど絵本の登場人物にでも出会(でくわ)したような感覚に近いものがある。
「みょおぉぉ!? クズちゃんおっきぃ~! 意外~~!」
「んひぃぃ……!」
ともかく、先方の身柄をぐいと押しのけ、ほどよい距離感を設定する。
この調子では、会話も何もあったものじゃない。
「なぁに~? もっと揉ま……」
「それ以上言ったらぶん殴りますよ? さすがに」
相棒の童はと言うと、先頃から沈黙に徹したまま、こちらにジロジロと訝(いぶか)しげな目線をくれている。
いつもなら、こういう手合いにはいち早く噛みつくはずのところが、本日はどうも妙な案配だ。
「それで、ご用件は?」
「“ご用件は”だって! か~わい~い~! クズちゃんまじめかー!?」
「………………」
気がつくと、当座はラウンジに居合わせる人々の注目の的になっていた。
酔っ払いを眺めるのは、たしかにおもしろくはある。
それが彼女のような、うら若い美人であれば尚更かも知れない。
「もうちょい小さめにね、声。 笑われてるから」
「いいじゃん! 笑わせんの大好き!」
「や、笑われてんのよ」
先方はどうか知らないが、こちらとしては見世物に甘んじるつもりはない。
速やかに酔いを覚ましてくれると助かるのだけど、生憎とそのような妙薬の持ち合わせはない。
頭から水でもぶっかけてやろうか。
そんな風に、いよいよ忍耐を欠いた葛葉が、受付近くに設置されたウォーターサーバーにチラチラと横目を使い始めた頃。
「アイツ、世話になったみたい。 ありがとね?」
一転して表情を真摯(しんし)に取りなした女性が、もの柔らかな調子で謝意を唱えた。
蜷局(とぐろ)を巻くような酩酊の気(け)は鳴りを潜めており、目元には持ち前の理知的なものが覗いている。
「あそこでクズちゃん手ぇ貸してくんなかったら、たぶんアイツ……」
こうした顔つきを的確に表す言葉とは、果たしてどのようなものだろうかと、葛葉はぼんやりと考えた。
一言でいうなら愛情の表れか。 恐らくは仁愛に等しいものと思う。
まるで手のかかる弟を救われて、ほっと安堵するような。
大きな瞳が潤んで見えるのは、単に酒のせいという訳では無さそうだった。
「そりゃ、ツレ助けるのは当たり前でしょ?」
「そこ! そこなのよクズちゃんのエラいところは! 一度はケンカ吹っ掛けた相手なのにさぁ。 マジ慈悲ぶか! マジ女神っつーかさぁ」
「まぁ、そうね……」
「そりゃまぁ、あん時はあたしも手ぇ貸したけどさ。 あ、その節は本当に」
「いやいや。 こちらこそ」
格式ばったやり取りもそこそこに、悦に入(い)った女性はふたたび浮かれ調子を演じ始めた。
その模様に釣られ、こちらも相好を崩してはみるが、“昔の自分なら……”と、胡乱(うろん)な所感がふと脳裏をかすめた。
昔の自分なら、己に刃向かった相手を安易に赦(ゆる)しただろうか?
あまつさえこれを仲間とし、道行きを共にする事など。
『あり得へんわ。 昔の主(あるじ)さんやったらそんなもん、一族郎党までイテもうてたんちゃうの?』
婀娜(あだ)っぽい声色が、足裏を伝って速やかに頭内へ這い上がってきた。
これに対し、こちらも音声によらず言葉を返す。
『あんたね、私をなんだと思ってんの?』
『否定はできひんやろ? おっとろし羅闍(らじゃ)さんの姫御前(ひめごぜ)やん、そんくらい行ったらなカッコつかへんて』
『いいから寝てなよ。 疲れてんでしょ?』
『いーやぁ? 久々に起こされて暇なんやしぃ。 ちょっとでぇから遊んでよ?』
『寝てな』
『怖っわぁ……。 まぁええけどー』
不興を恐れたか。 それ以上の問答を控えた声の主は、最後に一言だけ、捨てゼリフのように残して交信を終えた。
『てか主さん。 ひょっとして牙、ちょい伸びてへん?』
ハッとして犬歯に舌先を当てるも、特に変化は見られず。
奴(やっこ)さんの性格に似合いの、いつもの冗語か。
ふと辺りに目をやると、相棒の童がものすごい形相で地面を睨みつけているのが見えた。
姉弟の確執。 この場合、性格の不一致というよりは、片方の性格にとんでもない難点があるせいではなかろうかと、溜息の随意(まにま)にそんな考えが浮かんだ。
「それで、カヤさん?」
「はいは~い?」
「今日って、どういう感じで? やっぱり虎石っさんに会いに?」
気を取り直して訊ねたところ、先方は待ってましたとばかりに酔眼を輝かせ、にわかに身を乗り出した。
その仕草はまるで、恋バナに食いつく乙女のそれを見るような。
果たして、そういった見当はあながち間違いではなかったらしい。
「アイツに女ができたって言うからさぁ! お祝いに駆けつけたって寸法で」
「……誰に女ができたって? バカかオメーは」
そこに呆れ調子の声が割って入った。
見ると、今しがた帰着した虎石が、なんとも渋い顔をして立っていた。
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