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編成広報局に戻った私は、真っすぐに中沢の元へ行った。
「ただいま戻りました」
「お疲れ様。どうだった?なんとかやれそうだったかな?」
「はい。無事に終わりました」
「そうか。ま、当面よろしく頼んだよ」
「はい」
彼に頭を下げて席に戻ろうとした私に、佐竹が声をかける。
「お疲れ様でした。ねぇ、川口さんって、矢嶋さんと知り合いなんですってね」
特に積極的に隠していたわけでもなかったから、私は素直に頷いた。
「大学時代の先輩です。でも、誰から聞いたんですか?」
「さっきロビーで梨乃ちゃんに会って聞いたの。あぁ、梨乃ちゃんとはね、以前広報の手伝いをやってもらったことがあって、それで顔見知りなのよ。でも、そうだったのね。どうして今まで黙ってたの?」
「特に言うことでもないと思っていましたし……。そもそも私たち、特に仲が良いというわけでもありませんので」
苦笑する私を佐竹は疑うような目で見る。
「でも梨乃ちゃんは、二人が仲良さそうだったって言ってたけど」
「それは誤解だと思います」
「ふぅん?……あら、矢嶋さんだわ。ここに来るなんて珍しいわね」
佐竹がフロアの奥の方に目を向けて、嬉しそうな顔をした。
矢嶋は周りに愛想を振り撒きながら、編成広報局へ向かって歩いてきた。
彼を見る佐竹の表情とその眼差しから私は悟った。どうやら彼女は、矢嶋のことが好きらしい、と。
矢嶋は私たちの前で足を止めた。それから、手にしていた小さめの紙袋を佐竹の目の前に差し出した。
「佐竹さん、お疲れ様です。これ、長谷川から預かってきました。今度の番組の資料だそうです。宣材用のデータもひと通りは揃えてあると言っていましたので、後で確認してみてもらえますか?」
私の気のせいでなければ、紙袋を受け取った佐竹の頬が、ほんのりと紅潮しているように見えた。
それを目の当たりにして、私はますます矢嶋に対する佐竹の想いを確信した。
「連絡をもらえれば、直接取りに行ったのに。わざわざ矢嶋さんにお使いをさせるなんて、長谷川さんたら図々しいんだから」
佐竹の声がいつもより甘めに聞こえるのは、私がそういう目で見ているからだろうか。
こんな男のどこがいいのかしら。佐竹さんたら趣味が悪いわ――。
人当たりのいい笑顔を作っている矢嶋に苛々する。私はお邪魔だろうと思いながら、足音を立てないようにそっと自分の席に戻った。やれやれと思いながらパソコンの電源に指を伸ばした時、突然間近で矢嶋の声がした。
「川口さん、今日は手伝ってくれてありがとう」
いったい何の用かと怪訝に思いながら、私は顔を上げた。普段の彼を知っている私にしてみれば、胡散臭いとしか言いようがない笑顔を浮かべて立っている。
「少し時間をもらいたいのですが」
「なんでしょうか。何か連絡事項ですか?」
なんとなく周りでみんなが聞き耳を立てているような気がして、居心地が悪い。早く用事をすませていなくなってくれないものかと思う。
「番組絡みのことで、手伝ってほしいことがあるんですよ」
「私が、ですか?」
「そうです。川口さんに手伝ってほしいんです、一階の方で」
「でも……」
離席していいかの確認を取るように局長の方に目をやったが、電話中だった。
返答に迷っていると、横顔に視線を感じた。その方向へ首を回してどきっとする。佐竹が私と矢嶋の様子をじっと見ていた。その表情を見て、嫉妬されているのが分かった。
こんなことで、ここでの人間関係を壊したくないのだけれど――。
私の視線をたどった矢嶋もまた、佐竹が自分たちを見ていることに気がついたらしい。すると彼はテレビ用かそれ以上に爽やかな、しかし艶のある笑顔を佐竹に向けた。
彼女がはっと息を飲んだのが分かった。
「佐竹さん、川口さんをお借りしたいのですが、大丈夫ですよね?そんなに時間はかからないと思うので」
「え、えぇ、どうぞ」
矢嶋に答える佐竹の頬は明らかに染まっていた。
先輩には女たらしの素質があるのね――。
心の中で呆れていると、矢嶋は私に向き直りにっこりと笑う。
「川口さん、お願いできますよね?」
「局長がいいと仰るなら……」
「それもそうだ。確認しないとね」
矢嶋は今気づいたとでも言うような顔をして、私の傍に立ったままよく透るその声でちょうど電話を置いた中沢に声をかけた。
「中沢局長、ちょっと川口さんをお借りしますね」
いいですかと訊ねるのではなく、なぜかもう断定口調である。
「川口さんに急ぎの仕事がないならいいよ」
「ありがとうございます。……だ、そうです。行きましょうか」
矢嶋は笑顔で、しかし拒否は許さないとでもいうような力強い目で、私を促した。
私は諦めてため息をついた。こうなったら早く、矢嶋の言う所の手伝いとやらを終わらせよう。私は席を立ち、その場のみんなに頭を下げた。
「すみません。行ってきます」
顔を上げた時、さっきとは違うちりちりとした視線が飛んできたような気がした。佐竹だと思った。わざわざそちらを見るのも恐い。結局その視線には気づかなかったことにして、私はそそくさと矢嶋の後を追いかけた。
矢嶋は廊下で待っていた。私がついてきたことを確かめると、ずんずんと大股歩きで先を行く。
その後を小走りで追いながら、私は彼の背中に声をかけた。
「お手伝いって、時間かかりますか?私、夕方まで出さなきゃいけない原稿があって、あんまり長い時間は手伝えないんですが。会議もあるし……」
「さっき言った通り、そんなにかからない」
矢嶋は短く答えただけで、黙々と私の前を行く。一階に降りて通用口近くにある倉庫に入って行った。
そこには様々な宣材や、出番がなくなった機材、ポスターなどが所狭しと置かれている。そのうち整頓しなければ、と中沢がこぼしていた。
そんな場所に来たということは、何か探す手伝いでも頼まれるのだろうかと思いながら、私は矢嶋の後に続く。
「探し物ですか?」
背後でバタンと扉が閉まったと同時に、腕を取られた。何事かと驚いた時には目の前に矢嶋がいて、私の背中には壁があった。
「せ、先輩?」
私は驚いて矢嶋を見上げた。彼の両手は今、私の顔の両側にあった。
これってあの有名な壁ドン――?
こんな時なのにそんなことが思い浮かんだ。それだけ動揺していたということだ。
「先輩って呼ぶな。それからお前、男に簡単に触らせてるんじゃないよ」
「は?」
急に何を言い出したのかと、矢嶋の言葉に私はぽかんとした。
「あの、手伝うことがあるんじゃ……」
「そんなものは口実だよ。ひと言言わなきゃ気が済まなくて、お前を連れ出すために適当に言っただけだ」
「なんで、そんな」
「だから今言っただろ。男に簡単に触れさせるなって。こないだからなんなんだよ。飲み会の時は市川、ここでは辻さん。もっと危機感を持てよ」
一方的な矢嶋にカチンとして、私は彼をにらんだ。
「危機感って、何言ってるんですか。意味が分かりません。だいたい市川には藍子っていう彼女がいるし、辻さんにしたってちょっと触れられたくらいですよ」
「あれは、ちょっとなんてものじゃないだろ」
矢嶋の眉間にぐっとしわが寄った。
彼の反応を謎に思いながら、私は訊ねた。
「それよりどうしてわざわざそんなことを、先輩が気にするんですか?」
「だから、先輩って言うな」
「そこじゃなくて、気にする理由を聞いてるんです」
私はムッとして強い口調で重ねて彼に訊ねた。
すると矢嶋は諦めたように私から目を逸らし、ぼそっと言った。
「……嫌なんだよ」
「何が?」
「だからっ!お前と他の男との距離がやたら近いのが、嫌なんだよ」
主語が分からず私は聞き返した。
「嫌って、誰が」
「俺が、に決まってるだろ」
彼は不貞腐れたように言う。
私はごくりと生唾を飲み、目を泳がせた。
「決まってるだろと言われても……」
いつも私をからかってばかりで、変なあだ名で私を呼び続けてきた彼。その人が、他の男の人が私に触れるのを嫌だと言っている。その意味するところは、普通に考えればそういうことなのかもしれないが、しかし――。どくどく言い出した心音のせいで声が震えそうになる。
「私が誰に触れられようが、触れさせようが、矢、矢嶋さんには関係のない話じゃないですか」
「関係ある」
「どんな関係があるって言うんです」
まるで禅問答でもしているようだと思いながら、私は唇を引き結び矢嶋を見上げた。
彼は決意を固めたような顔をして、私にじっと視線を注いだ。
「お前が好きだったんだよ。学生の時からずっと」
「え……」
私は絶句した。真っすぐなその視線を受け止めきれず、目をそらす。これまでのことがあるから、彼の言葉をそうやすやすと信じられるわけがない。この鼓動の脈打ち方は、何かの間違いだ。そうに決まっている。
「またそうやって私をからかおうとする。会うたびに私のことは酒の肴扱いで、変な呼び方していつもからかってばかりだったくせに」
言っているうちにこれまでのことが思い出されて、ふつふつと怒りが湧いてくる。
「私のこと、おもちゃにするの、やめてください。不愉快です。用事がないんだったらもう戻ります。派遣とは言え、これでも忙しいんです」
そう言い捨てて矢嶋の前を通り抜けようとした。しかし彼に行く手を阻まれた。
「待ってくれ。からかってなんかない。これまでのことは、本当に悪かったと思ってる。反省してるんだ。お前を目の前にすると、嬉しいと思っているのに素直になれなかった。それに、お前たちの学年連中って仲がいいだろ。そういう関係じゃないことが分かっていても、市川だとか、他の奴らとべたべた肩組んだりしてるのを見る度に、嫌な気分になってた。どうしてそんな風に気安く触れさせてるんだ、って腹が立って、お前のことをいじめたくなってた」
「なんですか、それ……」
私は混乱したまま矢嶋の顔を見つめた。
彼は私の視線を受けて、恥ずかしそうに笑う。
「小学生レベルのヤキモチだってことは、自分でも分かってる。でも、そんな態度しか取れなかった。ごめん。ほんとに悪かった。でも、分かってくれ。それはお前を好きだからこその反応だったんだよ」
私は彼から目をそらし、自分の足下を見た。苦手だと思う前のあの頃ではなく、どうして今ごろそんなことを、と恨めしくなる。
「でも、私……。ずっと嫌われているって思っていたから、矢嶋さんのことを、急にそんな風には思えません」
「分かってる。だから俺と付き合ってみてほしい。お前って今、フリーのはずだよな。絶対に意識させてみせるから」
「そんなの困ります……」
「気になる男がもう、いたりするのか?」
いないと答えようとして、言葉が詰まる。どうしてか、目の前の男の顔がぱっと浮かんだのだ。途端に頬が熱くなる。
矢嶋は、それ以上私に答えを求めるつもりはないようだった。
「まぁ、いい。仮にお前に気になる男がいたとしても関係ない」
前髪の辺りに矢嶋の息が柔らかくかかり、私ははっとして顔を上げた。
すぐ目の前に矢嶋の顔が迫っていて、私はぎゅっと目を瞑った。
まさか、キス……?
しかし、矢嶋が顔を寄せたのは私の耳元だった。
「俺と付き合って」
「っ……」
そのままだっていい声なのに、そこにさらに艶のような色を乗せて囁かれて、くらりとめまいが起きそうになった。
苦手な人のはずなのに、どうしてあの夜も、あの時も、今も、どきどきしてしまうの――。
私は彼から顔を背けた。
「離れてください」
「夏貴が頷いてくれたら離れてやるよ」
甘い声で言われて、鼓動がうるさいくらいに騒ぎ出す。胸が苦しいほどだ。
「う、頷きません」
「夏貴、好きだよ」
首筋に彼の吐息をふわりと感じて、思わず小さく声がもれた。
「あっ……」
いやだ、変な声が出た――。
羞恥に慌てて手で口を塞いだ私に、さらに矢嶋は顔を近づけて熱く囁く。
「夏貴、好きだ。俺の彼女になれよ」
これ以上囁かれ続けたら、おかしな気持ちになりそうだった。私は弱々しいながらも、この時精一杯の力で彼の体を押しやった。
「お願い。離れて……」
私の様子に矢嶋は満足そうな顔をして、ようやく私を解放した。
「今日はこれくらいで勘弁してやるよ。本当はこんな形で気持ちを伝えるつもりはなかったが、これで少しは俺のことを意識するようになるだろ。それから、いいか。他の男に気安く触らせるんじゃないぞ。分かったな」
力が抜けそうになっていた背中を壁で支えるようにしながら、私は彼を睨みつけた。
「私、矢嶋さんの彼女になるつもりなんかないですから」
しかし矢嶋はくくっと愉快そうに笑う。
「頑張って。でも、すぐに堕としてやるから覚悟しておけ。来週もよろしくな。あぁ、それから」
矢嶋は私の額にキスを一つ落とす。
「二人の時は、今度から『夏貴』って呼ぶから」
目元を優しく細めてそう言うと、彼は颯爽とドアの向こうへ姿を消した。
私は壁に背をくっつけたまま、自分の胸に手を当てた。顔の火照りとドキドキが落ち着かない。
「なんなのよ……」
彼の艶のある声は耳の奥にいつまでも余韻として残り、私の心をかき乱した。