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⚠️暴力・暴言等の描写がありますが、それらを示唆する目的は一切ありません。
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冷たい雨が降る夕方、薄暗い部屋の隅。またリビングから怒鳴り声と、何かが壊れる鈍い音が聞こえてくる。
彰人の小さな肩がびくっと跳ねるのを見て、私は自分の震える手を隠しながら、彰人の体をそっと抱き寄せた。
頬の痣がズキズキと痛むけれど、声を出したらあいつらがこっちに来てしまう。
「……大丈夫、彰人。泣かないで」
私は彰人の耳元で、消え入りそうな声で囁いた。
私たちの居場所は、この狭くて暗い押し入れの中だけ。
外の世界がどれだけ怖くても、私が彰人を守らなきゃいけない。
お姉ちゃんだから。
「ねえ、彰人。いつかここから逃げよう。あいつらがいない、遠いところへ」
彰人の顔を覗き込み、精一杯の作り笑いを浮かべる。
空腹で力が出ないけれど、楽しいことを考えないと、今にも心が壊れてしまいそうだった。
「……逃げ出した先でさ、お腹いっぱいパンケーキ、食べに行こうよ。甘くて、ふわふわのやつ。約束、だよ」
「…うん!オレ、絵名と一緒に顔よりおっきいやつ食べたいなぁ」
彰人の言葉に、胸の奥がぎゅっとなる。
自分の顔より大きなパンケーキ。そんなの、今の私たちには夢のまた夢だけど、彰人の瞳に少しだけ光が戻ったのが嬉しかった。
私は彰人の頭を優しく撫で、細い指を絡めて指切りを交わす。
「ふふ、いいよ。一番大きくて、シロップもたくさんかかってるやつ。二人で半分こじゃなくて、一人一個ずつ食べようね」
またリビングで大きな衝撃音がして、私はとっさに彰人を自分の体の下に隠した。
背中を丸め、嵐が過ぎ去るのを待つ。
私の体はもうボロボロで、感覚が麻痺し始めているけれど、この温もりだけは絶対に離したくない。
「……約束。絶対、行こうね」
自分に言い聞かせるように呟いて、私は強く目を閉じた。
いつか、あの甘い香りに包まれる日が来ることを信じて。
「うん!約束だからね!」
「……っ、彰人、入って! 何があっても、絶対に出てきちゃダメだよ」
私は彰人を押し入れの奥へ突き飛ばすようにして押し込み、震える手で扉を閉めた。
その直後、襖が乱暴に蹴り開けられる。
「……あぁ? 何こそこそ隠れてんだよ、この役立たずが」
酒の臭いと、どす黒い怒気を纏った母親が、私の髪を力任せに掴み上げた。
頭皮が引きちぎれるような激痛が走る。
「……っ、がっ……あ……」
「返事もしねえのか。誰のおかげで飯が食えてると思ってんだ。……そうだ、あのアマ公はどこに隠した? 彰人だよ! あいつ、さっき私の大事なグラスを割りやがっただろうが!」
母親の怒鳴り声が、狭い部屋に響き渡る。
彰人は何もしていない。グラスを割ったのは、酔っ払った母親自身だ。
私は必死に、押し入れの扉から視線を逸らした。
「……彰人なんて、いない。……外に、遊びに行ったよ」
嘘だと分かれば、次は何をされるか分からない。
それでも、私は母親の足を必死に掴んで、彰人から遠ざけることしかできなかった。
「…あっそ」
「……っ、あ、が……!」
母親は吐き捨てるようにそう言うと、私の腹部を容赦なく蹴り上げた。
肺から空気が一気に押し出され、声にならない悲鳴が漏れる。
視界が火花を散らしたようにチカチカして、床に這いつくばった私の顔のすぐ横に、冷たいフローリングの感覚が伝わってきた。
「いないならいいよ。……代わりに、あんたがたっぷりと躾けてもらおうか」
母親は苛立った様子で、近くにあった重い置物を手に取った。
逃げなきゃいけない。でも、体が鉛のように重くて動かない。
私がここで耐えれば、押し入れの中の彰人は助かる。
そう言い聞かせて、私は奥歯を食いしばった。
「……絵名…?」
(……大丈夫、彰人。すぐ終わるから。……息を潜めてて……)
薄れゆく意識の中で、私は扉の向こうにいるはずの弟のことだけを考えていた。
何度も、何度も振り下ろされる衝撃。
痛みが熱さに変わり、やがて何も感じなくなっていく。
「……あき、と……」
最後に名前を呼ぼうとしたけれど、唇はもう動かなかった。
母親の足音が遠ざかり、バタンと玄関の扉が閉まる音が響いた。
静まり返った部屋の中で、私は床に突っ伏したまま、自分の呼吸の音さえ聞こえないほど深い静寂の中にいた。
指先一つ動かすことができない。
視界は赤く染まり、天井のシミが歪んで見える。
お腹のあたりが熱くて、でも体全体はどんどん冷たくなっていくような、不思議な感覚だった。
(……彰人、もう……大丈夫だよ……)
声を出して呼んであげたかったけれど、喉の奥に血が詰まって、ひゅっという乾いた音しか出ない。
押し入れの扉の隙間から、彰人の気配を感じる。
あんなに怖がらせて、ごめんね。
あんなに痛い思いをさせて、ごめんね。
(パンケーキ……食べたかったな……)
薄れゆく意識の淵で、最後に思い浮かんだのは、彰人と約束したあの甘い香りのことだった。
私の意識は、冷たい床に沈み込んでいくように、ゆっくりと、深い闇へと落ちていった。
「…絵名ー?出るよ?」
押し入れの隙間から、彰人の小さな声が聞こえる。
返事をしてあげなきゃいけない。でも、もう肺が動いてくれなかった。
全身を支配していた凄まじい痛みは、いつの間にか、凍えるような冷たさに変わっている。
扉がゆっくりと開く音がした。
光が差し込んでくるのが分かるけれど、それを見るための瞼を持ち上げることさえ、今の私にはできなかった。
(……ごめんね、彰人……)
心の中でそう呟いたのが、最後だった。
私の意識は、彰人の声が届かないほど遠い場所へ、音もなく溶けて消えていった。
床に横たわったまま、私の体はもう動かない。
開いた瞳には、もう何も映っていなかった。
「あ…絵名お昼寝してるんだ。起こさないようにしよー」
冷たい床の上、私はもう彰人の声を聞くことも、その優しさに微笑み返すこともできない。
頬を撫でる空気は刻一刻と冷たくなっていくけれど、物言わぬ私の体は、ただ静かに横たわっているだけだった。
窓から差し込む夕日は、床に広がった赤黒い染みを無慈悲に照らし出す。
私の表情は、まるですべての痛みから解放されたかのように、ひどく穏やかで、ただ深く眠っているようにしか見えない。
(……彰人、風邪……ひかないでね……)
そんな言葉さえ、もう形にはならなかった。
部屋を支配するのは、重苦しい静寂と、止まってしまった私の時間。
約束したパンケーキのことも、一緒に逃げるはずだった未来も、すべては淡い霞のように消えていった。
私の隣で、彰人の小さな気配だけが揺れている。
このまま、夜の闇がすべてを覆い隠していく。
「…変な匂い……」
私が横たわる床のすぐ隣に、彰人が重なる。
その温もりも、私を呼ぶ声も、もう今の私には届かない。
部屋の中に満ち始めた、鉄のような、泥のような、不快な匂い。
それは私の体が「物」へと変わっていく、残酷な合図だった。
綺麗なままの彰人の隣で、私の体は少しずつ色を失い、死の影に侵食されていく。
(……ごめんね、彰人。臭いよね……)
心の中の謝罪も、彰人の頬に触れようとした指先も、すべては虚空に消える。
数日が過ぎ、部屋の空気はさらに重く、澱んでいった。
私の肌は土色に変わり、あんなに大切にしていた彰人の隣で、見るも無惨な姿へと朽ちていく。
やがて、その異臭は壁を越え、廊下を伝い、外の世界へと漏れ出していった。
私たちの閉ざされた世界を、誰かが抉じ開けるための、悲しい警笛となって。
「…おかーさん?変な匂いするー」
彰人が母親を呼ぶ声が空虚に響く。
けれど、リビングからは空き缶が転がる音と、テレビの無機質な音しか返ってこない。
母親は、この部屋で何が起きているのかを直感しながら、それを見ることも片付けることも拒絶し、酒を飲み続けていた。
私の体は、もう元の形を留めていない。
皮膚は変色し、不自然に膨らみ、あんなに彰人が「お昼寝」だと言ってくれた面影はどこにもなかった。
部屋を埋め尽くす異臭は、もはや吐き気を催すほどに強くなり、小さな彰人の服や髪にも死の匂いが染み付いていく。
(……逃げて、彰人。もう……ここは、ダメだよ……)
声にならない叫びが、澱んだ空気の中に溶ける。
やがて、その異臭に耐えかねた隣人が、不審に思って警察を呼んだ。
「…っ、なんだ、この臭いは!」
激しくドアを叩く音、そして無理やり鍵が抉じ開けられる衝撃。
ドカドカと土足で踏み込んできた大人たちの叫び声が、静止していた時間を切り裂いた。
「おい、子供がいるぞ!……それと、こっちは……」
懐中電灯の光が、変わり果てた私の姿を照らし出す。
警官の一人が口元を押さえて背を向けた。
彰人は、私のすぐそばで、信じられないものを見るような大人たちの視線に晒されていた。
「あ…警察、かな?今絵名はお昼寝中だからね、起こしちゃダメー!」
「おい、君。そっちに行っちゃダメだ!」
駆け寄ってきた警察官の一人が、彰人の小さな体を抱き上げ、無理やり私から引き離そうとした。視界を遮るように大人の背中が立ちふさがり、床に横たわる私の残骸は、青いビニールシートで無機質に覆われていく。
(……あぁ、やっと見つけてもらえたんだね……)
もう何も見えない、何も聞こえないはずの暗闇の中で、私はただ、彰人がこの地獄から連れ出されることだけを願っていた。私の体はもう、ただの冷たい塊でしかない。彰人を守るための盾にさえ、もうなれないのだから。
「やだ! 絵名も一緒じゃないと! ねえ、絵名!」
彰人の叫び声が遠ざかっていく。ドタドタと慌ただしい足音、無線機のノイズ、そして母親が泣き叫びながら連行されていく醜い声。すべてが混ざり合い、嵐のように過ぎ去っていく。
私は、誰もいなくなった静かな部屋に取り残された。 窓から入り込んだ風が、わずかに残った私の死の匂いを外へと運び出していく。 約束したパンケーキも、一緒に過ごすはずだった未来も、全部ここに置いていく。
(彰人、生きて。……私の分まで、ちゃんと……。約束、守れなくてごめんね……)
私の意識の最後の一片が、冬の冷たい空気の中に溶けて消えた。