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生まれたとき、助産師が口にした第一声は「Ωです」だったらしい。
その瞬間から、俺の人生には見えない“枠”がはめられた。
進む道も、選べる未来も、愛され方すら、すでに決められていたかのように。
この世界は、第二性によって分けられている。
α(アルファ)は支配者。力と本能に優れ、社会の中枢を担う存在。
β(ベータ)は中立者。特別な能力もないけれど、偏見も少ない“普通”の人々。
そして——Ω(オメガ)は、最も不自由な存在だ。
繁殖に特化した身体と周期的な発情期、αとの“運命の番”という強制的な絆。
この身体を持って生まれただけで、欲望の対象にも、蔑みの対象にもなる。
子どもの頃、俺はそれを知らなかった。
いや、知らされなかった。
母は「普通に生きなさい」と言った。
学校でも、身体検査のデータを操作して、βとして扱われるようにしていた。
“普通”を演じれば、幸せになれると思ってた。
——けど、それは嘘だった。
高校のとき。
生まれて初めて発情期が来た。
誰にも言えずに隠れていた俺を見つけたのは、ひとりのαだった。
優しく見えた手は、気づけば俺を押さえつけていた。
「ごめん、ごめん」と言いながら。
抑制剤も、本能も、理性も、何もかもが通じなかった。
それから、俺は変わった。
自分の身体が、誰かの欲望に対して“無力”だと知った。
「Ωは自分を守れない」なんて言葉、死ぬほど聞いた。
でもそれが真実なら、俺は——誰よりも自分のことを、強く知らなきゃいけなかった。
それで、俺は警察官になった。
武器も権力も欲しかったわけじゃない。
ただ、自分の目で嘘と本当を見分けたかった。
誰かに「助けて」って言われたとき、自分だけはその声を見捨てたくなかった。
情報課への配属は、自分にとって最善だった。
冷静にデータを扱い、距離を保って事件に関われる。
身体を晒す必要もないし、Ωであることを告げる理由もなかった。
だけど、先月——異動の辞令が出た。
捜査一課。現場の最前線。αだらけの場所。
正直、冷や汗が出た。
でも、断る理由も、逃げる言い訳も、もう持ち合わせていなかった。
俺はΩだけど、
それが何だ。
自分で選んで、自分で進むって、決めたんだ。
だから今日も、抑制剤を飲んで、制服の胸元をきっちり閉めて、
「平気なふり」をして、職場に立っている。
この世界が俺を縛ろうとしても、
せめて心だけは、自由でいたいと願いながら。
―――――――午前九時、警視庁本庁舎。
捜査一課の打ち合わせ室は、まだ新しい匂いがする。
重い扉の向こうで鳴り続けるキーボード音と、捜査官たちの低い声。
馴染める気は、相変わらずしない。
ここは“β以上”の空気で満ちている。
「深澤。お前、今日から新しく組む相棒、まだ会ってねぇだろ?」
課長の声に振り向いた瞬間、
部屋の奥のドアが音もなく開いた。
……そして、彼は現れた。
岩本・照。捜査一課の切り札。α。
俺は、息をするのを忘れた。
黒のジャケット越しにわかる分厚い肩、無駄のない動き。
鋭い目元に、感情の色はなかった。
けど、それ以上に——空気が変わった。
誰か一人が入ってきただけで、室内の重力が変わるなんて、初めてだった。
ただのαじゃない。
野生を黙らせたまま生きてる、獣のような男だった。
「岩本。こっちだ、こいつが深澤。情報課から上がってきた」
その目が、俺を射抜いた。
視線は短く、正確に、無駄がない。
体温でも探られるような、不快な緊張感が背骨を這う。
けど、嫌じゃなかった。
むしろ、目を逸らせなかった。
「岩本です。よろしく」
その声もまた、低くて静かだった。
威圧しないのに、簡単には逆らえない芯がある。
冷たいわけじゃないのに、あたたかさも見えない。
人間味を切り落としたような、そんな印象。
「深澤・辰哉です。情報分析、得意なんで。現場慣れは、まぁ、これからってことで」
軽口で自分を守るのが癖になってる。
けど、岩本の表情は微動だにしなかった。
「……動き、早い方がいい。ついて来られるなら、頼りにする」
一瞬、目の奥に何かが走った気がした。
評価? 見極め? それとも——警戒?
わからない。ただ、俺は咄嗟に笑った。
「そっちが置いてかないなら、頑張りますよ。α様」
ほんの冗談だったのに、空気が数度、冷えた。
岩本の眉が、わずかに動いた気がした。
あ、やばかったかなと思った瞬間——
「冗談でも、俺は優遇されてるつもりない」
淡々とした声で、そう言った。
ああ、これは手強い。
距離を詰めるには、時間も理屈も効かないタイプだ。
それでも。
なんでだろう。
背中がぞわつく感覚と同時に、変な安心も覚えていた。
——この人は、自分を曲げない。
それだけで、少し救われた気がしたのは、きっと俺が臆病だからだ。
午前十一時、品川の雑居ビル街。
第一現場。
捜査一課としての、俺の“初陣”。
「ここ。監視カメラ、二基とも死んでます。タイミング的には、計画的犯行かと」
タブレットを操作しながら、状況を報告する。
いつも通りの手の動き。
けど、体の奥がじっとりと汗ばんでるのは、抑制剤の副作用か、それとも隣に立つ男のせいか。
「侵入口は南側。階段には足跡が残ってた」
岩本は無駄口ひとつ叩かない。
現場の情報を見渡して、すぐに動き出す。
さっき言ったばかりのことを、すでに頭の中で再構築しているのがわかる。
早い。
頭の回転も、判断も、そして動作も。
「このビル、3階が空き室。2階はシェアオフィス。エレベーターは昨日の夕方から故障中」
俺が追いかけるように情報を足すと、岩本が小さく頷いた。
「階段、上がる。足音は殺せ」
そう言って、先に動く。
……こっちの言葉が通じてるのか、いまいち分からない。
けど、必要な情報は正確に拾ってる。
その姿勢は、冷たいというより、徹底して“仕事人”だった。
3階の扉は無施錠だった。
岩本が手を伸ばして静かに開ける。
彼の動作は、ほんとに驚くほど音がしない。
(αの“力”って、こういう形でも出るんだな)
無意識に思った自分に、少し腹が立った。
それでも——
次の瞬間、岩本の腕がスッと俺の前に伸びてきた。
「下がれ。中、誰かいる」
耳元で囁く声に、背中が一瞬ぞわっと震えた。
低く、短く、でもはっきりとした命令。
従うよりほかなかった。
数秒後、室内から物音がして、岩本が飛び込む。
俺もすぐに続くと、男が一人、窓辺にへたりこんでいた。
痩せて、目の下にクマをつくった中年男。
手には刃物……のようなものがあったけど、すでに岩本がそれを蹴り飛ばしていた。
「身元確認、深澤」
短い指示が飛ぶ。
うなずいて、俺は男のポケットからIDを確認し、スマホで照合をかける。
「……被害者の元同僚。名前も一致。可能性、高いです」
岩本は、男を押さえつけながら、静かに言った。
「やっぱり、情報屋ってのは信用できねぇな」
ちょっとだけ、口元が緩んでる気がした。
その瞬間、俺は気づいた。
この人、全部“わかった上”で黙ってるんだ。
沈黙は無関心じゃない。
信頼を測ってる。俺がどう動くか、何を選ぶか、見てる。
「……初仕事としては、濃いめでしたね」
ぼやくと、岩本が短く返した。
「お前、動きは悪くない。言葉は余計だけどな」
え、と一瞬硬直してから、思わず笑ってしまった。
「はいはい。α様は口も厳しいんですね」
返したその瞬間、岩本がこちらを横目で一瞥した。
その視線に、熱はない。けど——温度はある。
凍てついた氷が、ほんの少し、溶け始めたような。
この人と、これから組んでいく。
それが何を意味するのか、まだ俺は知らなかった。
けど、悪くない。
今のところは、ね。
数日後。
捜査は一見進展していた。
被害者は30代男性。
小さなIT会社の経理。
勤務態度に問題はなかったが、退職直前に金の動きが不自然だった。
そして第一容疑者である元同僚の男は、金銭トラブルを抱えていた。
動機も状況もそろっている。
なのに——岩本は、まだ「終わった」とは言わなかった。
「この事件、まだノイズがある。わざと残した痕跡だ。作為が強すぎる」
そう言って、彼はあれから3回、黙って現場を見に行っていた。
俺が提案した解析データにも、じっと目を通して、無言で頷いたあと、こう言った。
「……お前、よく見てるな」
たったそれだけだったけど、不思議な重みがあった。
褒められた?と一瞬思ったけど、口に出すと絶対茶化されそうで黙っていた。
そして今日も、俺たちはまた同じビルの前に立っている。
「なあ岩本さん、何が引っかかってるんです?」
エレベーターが動かないビルの階段を上りながら、声をかける。
岩本は一段先を歩きながら、ぼそっと言った。
「……お前が言ってた“視線の死角”。あれ、やっぱり重要だと思う」
俺が、あの日現場でぽろっと言ったこと。
「カメラの死角に逃げたってより、最初から“そこ”に立ってたんじゃないかって気がします」
その何気ない言葉を、彼はちゃんと覚えていた。
正直、少し驚いた。
「俺の言うこと、意外と聞いてるんですね」
「必要なことは、全部覚えてる」
「ふーん。じゃあ俺が昨日、コンビニで買ったおにぎりの具も?」
「……梅」
「はっ、正解」
笑った俺を、岩本はちらりと見た。
その視線に、違和感があった。
なんていうか——“まっすぐ”すぎた。
これまでの彼の目は、情報を探るレンズのようだった。
でも今は、俺という“個人”を測る目になっている気がした。
その瞬間、背中がひやっとした。
抑制剤の時間切れじゃない。これは本能だ。
(……やばい。ちょっと、見られてる)
そう思って、足を速めて先を歩いた。
でも、すぐに気配が後ろからついてくる。
静かに、けれど確実に。
まるで、狩りの始まりみたいに。
そして、またその夜。
帰り際、課のデスクで報告書をまとめていたとき、岩本がふいに言った。
「深澤。お前、身体……無理してないか」
ドキッとした。
それが“何”を指しているのか、すぐに判断できなかった。
単なる疲れか、それとも……Ωとしての何かか。
「大丈夫っすよ。寝れば治ります、だいたいのことは」
目を合わせずに答えると、少しだけ間があって——
「……そうか。なら、いい」
その声は、驚くほど低く、優しかった。
不意に心臓が跳ねた。
岩本照という人間は、確かに冷たい。
でも、時折あらわれる“柔らかさ”が逆に怖い。
あれは本能じゃない。選んで出してる、感情だ。
——俺に、興味を持ち始めている。
たぶん、気づかないフリができるのも、あと少し。
―――――――――――
「これは……“ただの金銭トラブル”じゃないな」
捜査資料を並べながら、岩本がぽつりとつぶやいた。
俺も気づいていた。
被害者の銀行履歴。社内の送金ルート。
そして例の第一容疑者の供述。
すべてが「都合よすぎる」。
ピースが“はまりすぎてる”と、逆に不自然だ。
「他にも何か、仕込まれてたってことですか?」
「たぶん。この事件、見せかけの表層だけで捜査を終わらせるよう誘導されてる。お前が気づいた“死角”のこと、あれが糸口だったんだろうな」
“死角”。
最初の現場で感じた違和感。
カメラのない場所に“偶然”犯人が現れた?
いや、そこに誘導されたんだ。
「……なあ岩本さん。これ、俺が“見つけた”ってこと、すでに向こうにバレてる可能性ありますか?」
その瞬間、岩本の手が止まった。
目線が鋭く俺に向けられる。
「どういう意味だ?」
「昨日、実家に非通知で電話があったんです。“あんたの息子、いい鼻してるな”って。それだけ。何も名乗らず切られた」
岩本の表情が、氷のように固くなる。
「それ、なぜ報告しなかった」
「……証拠がなかったし、もしかしたらただの嫌がらせかもと思って。でも今日、別のルートから照合したら、第一容疑者の交友関係に、過去に“Ω誘拐事件”の関係者がいたんです」
「…………なんだと?」
そのとき、課内の端末がピン、と警告音を鳴らした。
岩本が急いで確認すると、捜査班の別ラインからの急報が入っていた。
《外部の闇ネット掲示板に、特定個人(深澤辰哉)に関する投稿あり。
内容:“Ωである捜査員が、機密案件に踏み込んでいる”》
息が詰まる。
指先が冷たくなるのが分かった。
——バレた。
それも、完全に。
公表していないはずの俺の“第二性”が、外に漏れている。
「……誰が、なぜ」
震えそうになる喉で問いかけると、隣で岩本が低く、感情を押し殺したような声で言った。
「……お前がΩ、だったのか」
見ないようにしていたんだろう。
俺の挙動、薬の反応、フェロモンの管理……全部、慎重にやっていた。
けれど今、目の前のこの人は“知ってしまった”。
視線が重い。
拒絶でも、侮蔑でもない。
もっと別の、名のつかない熱が混じっていた。
「……悪い。隠してて」
「それよりも、問題は“なぜお前が狙われるか”だ。俺たちが突いてるのは、ただの内部不正じゃない。もっと別のルート……“人体取引”か、あるいは」
彼の言葉は途中で途切れた。
お互い、同じ仮説に行き着いていたから。
——Ωを狙った、計画的な人身売買ネットワーク。
そして、その実行犯の目の前に、
“Ωで、かつ捜査側の人間”という“格好の獲物”が現れた。
俺は、知らないうちに“座標”になっていた。
「……俺が、囮になります」
そう口に出すと、すぐさま岩本が拒絶した。
「却下だ。そんな危険な真似、させない」
「でも、俺が動かなきゃ、誰か他のΩがターゲットになるだけです。それに、向こうが“俺を使いたがってる”のは間違いない。なら、それを逆手に取る方が早い」
言い切ると、岩本は沈黙した。
拳を握ったまま、机の端を見つめている。
沈黙が怖かった。けど、崩れるわけにいかなかった。
しばらくして、彼はゆっくりと口を開いた。
「……分かった。やるなら、俺が張りつく。絶対に、お前に手を出させない」
その声は、静かなのに、鋼のようだった。
目も、いつになくまっすぐだった。
「お前を守る。……それが、俺の仕事だ」
仕事——。
その言葉に隠れた別の感情が、もうすぐ表面に出てくる気がした。
(――間に合うだろうか)
囮作戦の決行は、週明けの夜。
ターゲットがよく利用する地下ラウンジの偽会員として、俺が“Ωの情報屋”を装って接触する。
その背後には、岩本をはじめ数名のチームがバックアップにつくことになっていた。
すべては、敵の中枢に近づくための誘導。
俺が“彼らにとって価値ある獲物”だと信じさせる必要があった。
「……絶対、何があっても戻ってこい。時間がズレたら、強行で突入する」
作戦前、岩本はそう言った。
俺は頷くだけで、目を合わせられなかった。
気を張らなきゃいけなかった。
なのに、体の芯が妙に熱い。
(やばい……これ、抑制剤の効果……切れ始めてる?)
気づいたのは、準備室の鏡越しだった。
顔が赤い。呼吸も浅い。汗がやけに滲む。
予定より2日早い。
予備の注射は、あと1本しかない。
岩本が控室に戻ってくる。
俺の様子を見て、一瞬表情が変わった。
「……深澤、お前、これ……」
「大丈夫。行けます。打っておきます、予備の一本」
そう言って、静脈に注射を刺す。
けれど、体が拒絶してる。
効いている感覚がない。いや、もしかして耐性が出てきてる?
「……岩本さん、もし万が一、俺が途中で崩れそうになったら、撃ってください。麻酔でも、何でもいい。正気、保てなくなったら」
俺がそう言うと、岩本の目が鋭く光った。
「馬鹿言うな。正気を保たせるのは、俺の仕事だろうが」
「……っ」
その声に、わずかに滲んだ焦り。
こんな岩本、見たことない。
「なあ、なんでそんなに……。まるで、俺に――」
言いかけて、やめた。
今それを聞いてはいけない気がした。
ラウンジへ向かう車内。
俺の香りが、微かに変わり始めているのを自分でも分かっていた。
発情の一歩手前。獣じみた感覚が、足の裏からせり上がる。
(まだ、意識はある。まだ……大丈夫)
ターゲットが現れる。
予定通り、俺の隣に座ってくる。
「珍しいな、Ωで情報屋って。お前、なかなか香るな……興味あるぜ?」
あからさまな触れ方に、鳥肌が立つ。
口元が勝手に震える。笑顔を貼り付けるのが、やっとだ。
「価値ある情報には、それなりの対価が必要なんで」
「へぇ……たとえば、お前の身体とか?」
その瞬間、目の奥が真っ赤になった。
怒りじゃない。
獣が、内側から暴れ出すような感覚。
(まずい、ほんとに……もう、切れる)
耳鳴りがした。
手のひらが濡れる。
汗じゃない。指先の皮膚から、フェロモンがにじみ出ている。
——合図を送る暇がなかった。
突如、空気が爆ぜるように扉が開いた。
銃声と怒号。
そして、目の前に、誰よりも速く岩本が現れた。
「手ェ、離せ!!」
ターゲットが床に叩きつけられる。
それを見ながらも、岩本は俺の方を一秒も逸らさない。
俺の傍まで来ると、そのまま肩を抱いて引き寄せた。
「もう抑えんな。出していい。……俺が、全部受け止める」
その言葉に、限界が来た。
俺は岩本の胸元に顔を埋め、息を吐いた。
そこだけが、唯一まともな匂いだった。
焦げるような煙の匂いと、檻のような腕の中。
意識が、甘くとろけていく。
(……ああ、この人だけは……)
本能が、答えていた。
――――――――
ターゲットの引き渡しは、予定通りに終わった。
部隊が突入してから数分。混乱も最小限。
岩本の一声で動いた精鋭たちは、一切の迷いなく俺を囲い、安全圏に引き上げた。
だけど。
そこからの記憶が、ところどころ抜けている。
浮かぶのは、誰かの声。腕の感触。
そして、ひとつだけはっきり覚えているのは――
「……深澤。ここなら、誰にも邪魔されない」
今、俺たちは警察署の隣、誰も使っていない空き寮の一室にいた。
俺を運び込んだのは岩本だった。
指揮本部が落ち着いたあと、自ら申し出て俺をここへ連れてきたらしい。
「……なぁに、まさかその気だったんすか。まっさきに“お持ち帰り”されるとは思わなかったな……あれ、これって、職権乱用?」
口が勝手に軽口を叩く。
熱を散らすために。
理性を失いたくないから。
なのに、声がうわずってる。
うまく笑えていないの、きっとバレてる。
「馬鹿。……そんな顔で言っても説得力ねぇ」
岩本がしゃがみ込んで、俺と目線を合わせた。
その目が、やけに優しかった。
「……限界だろ。抑制剤、もう効いてねぇ。お前、よくここまで持たせたな」
肩に触れられた瞬間、喉の奥から変な声が漏れた。
もう駄目だ。
触れられるたびに、全部が刺激になる。
思考がまともじゃなくなる。
「っ……やだ、これ、俺……格好悪……」
「格好悪くなんかねぇ」
岩本が、俺を強く引き寄せた。
背中に回された腕が、震えてる。
「抱きたいって思ったよ、正直。……今だって、ギリギリだ」
低い声が耳元に落ちてくる。
「でも、ここでそうしたら、“お前を番にしたい”って気持ちごと、潰すことになる気がして」
一瞬、世界が止まった気がした。
“番にしたい”。
そんな言葉、冗談でも簡単に言えるものじゃない。
岩本の性格なら、なおさら。
「……そっちが言うんだ、それ」
体がぶるっと震えた。
でも、涙が出そうなほど嬉しかった。
「そしたら、俺、ちょっとだけ甘えていいっすか」
気づけば、自分から岩本の胸にしがみついていた。
この胸が、俺の帰る場所だったらいいのに。
そんなことを、初めて思った。
「お前の全部が、俺にとって“危うい”んだよ」
そう言って、岩本は俺の頭をそっと撫でた。
何もされていないのに、熱が落ち着いていく。
俺の本能が、岩本の“匂い”だけで鎮まっていく。
(……もしかして、やっぱり)
番。
この言葉が、現実のものとして浮かび上がってくる。
まだ確かめる術はないけど。
それでも、心の奥ではもう分かっていた。
この人じゃなきゃ駄目なんだって。
岩本の胸に寄り添ったまま、俺はそっと目を閉じた。鼓動が近くにあって、静かに、でも確かに鳴っているのがわかる。そのリズムが、まるで俺の不安をなぞってくれているみたいで。
「……さっき、“番にしたい”って言ってたよな」
「……ああ」
返ってきた声は、俺の耳元を震わせるような低音だった。息がかかるほどの距離。もう理性なんて、とうにとっくに危ういのに、それでも彼はずっと俺を傷つけないように踏みとどまっている。
その優しさに、胸がいっぱいになった。
「だったら……もう、そうしてくれよ」
岩本の体が、ぴたりと固まる。
「俺は、もうわかってる。お前が、俺の番だって。こんなに身体が求めてんのに、心が怖がってないのなんて……初めてだ」
自分の中の恐れを、震えながらも吐き出すように言葉にしていく。岩本の眼差しは変わらない。ただ、じっと俺を見つめていた。逃げないように、でも縛らないように。
「……ほんとに、いいのか?」
声がかすれていた。彼にしては珍しく、感情があらわになっている。それがたまらなく愛しくて、俺は首を縦に振った。
「お前なら……壊されてもいいって、思ったって言ったろ。……でも、本当は、壊れるんじゃなくて、初めて“満たされたい”って思ったんだ」
もう、自分の体が熱に飲まれかけているのはわかっていた。呼吸が浅くなり、足元がふらつく。けれど、怖くはなかった。
岩本の腕が、そっと俺の腰に回された。その手つきが、何よりも優しくて、涙が滲んだ。
「じゃあ……全部、預けてくれ。俺が、ちゃんと受け止める」
そっと、唇が重なる。触れるだけのキスはすぐに深くなり、息を奪われるほどに熱を帯びていく。俺の手が、岩本の背中を這いながら彼を引き寄せた。
衣擦れの音。浅い吐息。体が重なっていくたびに、お互いの境界が曖昧になっていく。触れるたび、奥にある不安がひとつずつほどけていくようだった。
名前を呼ぶたびに、彼の手が俺の存在を確かめるように動く。熱に浮かされる感覚の中でも、そのひとつひとつが、俺を“所有”ではなく“受け入れ”てくれているのが分かった。
深く、深く――結ばれた瞬間、体の奥から何かが弾けたような感覚が走る。
涙が零れた。
こんなふうに、自分が誰かに大事にされる日が来るなんて、思っていなかった。
なのに、今、この腕の中は信じられないほどあたたかくて――胸が、痛い。
岩本の手が俺の頬に添えられ、目が合った。まっすぐな瞳に、俺自身も思わず言葉を失う。何も言わないのに、すべてを悟られている気がして。
「……深澤、触れていい?」
その声音は、いつもの冷静な刑事のそれじゃなかった。揺れを含んで、必死に抑えた衝動が滲んでいて――それが、なぜか優しかった。
俺は頷いた。言葉にはできなかった。でも、体はちゃんと応えていた。
唇が重なり合い、浅く、そして深くなっていく。逃げ場なんてなかった。だけど、もう逃げたいとも思わなかった。彼の温度が欲しくて、自分から腕を回した。
彼の手が服の隙間に滑り込み、肌に直接触れてくる。ぞくりと背筋が震えた。呼吸が荒くなって、彼の名を呼びそうになるのを喉の奥で押しとどめた。
それでも、体は素直だった。腰を引き寄せ、脚を絡める。岩本の息が詰まり、抱きしめる力が強くなる。
「ふっ…んぅ…/////」
「……お前の全部が、綺麗でたまらない」
囁きが耳朶を打ち、理性が溶けていく。触れられるたび、何かが壊れていきそうになる。でも、怖くはなかった。岩本の手が、俺を壊すためじゃなく、守るように触れてくれていることがわかったから。
やがて、深く重なる瞬間――俺は小さく声を漏らし、必死にしがみついた。重なって、満たされていく。ひとつになりきれない、でも確かに求め合っていた。
熱の中で、彼の声が低く、震えて響いた。
「……好きだ、辰哉」
言葉が、肌よりも深く刺さってくる。心の奥に、ずっと蓋をしていた部分が、軋んだ音を立てて揺れる。
でも――俺は、何も言えなかった。
言葉にしたら、きっと引き返せなくなる。
代わりに、ただ彼の首に腕を回し、抱きしめ返す。唇を重ね、全身で“ありがとう”を伝えた。
“番”にはなりたい。でも番にはならない。
それでも、俺は今、彼に抱かれている。
この瞬間だけは、すべてを許したかった。
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