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るるくらげ
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#再会
モラちゃんは始終、メイドカフェに顔を出すけど、歴とした会社員。生命保険会社の営業部で働いている。スーツ姿でネクタイを少し緩めて、名刺入れを胸ポケットに差し込んだまま、「おい、コーヒー」って低い声で注文してくる。
保険の営業だから、時間に融通がきくんだろう。
午後の打ち合わせが終わった後とか、客先回りが早めに終わった日とか、暇さえあればピンクのドアをくぐって入ってくる。店内の甘い空気に馴染まない不機嫌な顔で、一番奥の暗いテーブルに座って、スマホをいじりながら私を監視する。
他のご主人様たちが「きゅんきゅん♡」で盛り上がってる中、彼だけはブラックコーヒーを無言で飲んで、視線だけがねっとり絡みついてくる。給料泥棒ではないかと思ってる。会社から給料もらって、仕事中にこんなところで時間を潰してるなんて、上司にバレたらどうなるんだろう。
でも、そんなことを口に出そうものなら、店を出た途端に路地裏に連れ込まれて、壁に押し付けられる。背中が冷たいコンクリートに当たって、息が詰まる。「おまえ、俺の仕事に口出すんじゃねえよ」って、耳元で静かに、でも確実に小言を言われる。声は低くて、怒鳴らないから余計に怖い。
「俺がここに来るのは、お前のためだよ。売上に貢献しているんだ、ありがたく思えよ」
って、指で顎を掴まれて顔を上げさせられる。目が合った瞬間、逃げ場がない。だから、言えない。「給料泥棒」なんて言葉は、心の奥に押し込んで、「ご主人様♡ お待たせしましたぁ♪」って笑顔でごまかすしかない。
今日も、彼は午後三時頃に現れた。宇佐美さんが去った後の、店内の空気がまだ少し張り詰めてるのに。モラちゃんは奥のテーブルに座って、スマホをいじりながら、時々私をチラチラ見る。視線が、昨日より重い。名刺のことを、まだ根に持ってるんだろう。
コーヒーを運ぶと、「おまえ、昨日あいつに何話したんだよ」って、小声で聞かれる。私はトレーを抱えたまま、「何も……お会計だけです」って答える。
本当は名刺を握りしめて、まだポケットの中にしまってるのに。彼は鼻で笑って、「嘘つくなよ。俺が見てたんだからな」って、カップをテーブルに叩きつけるように置く。音が小さく響いて、同僚たちがびくっとする。彼は会社員だから、こんなところで時間を潰せる。保険の契約取れなくてイライラしてる日も、客先で上手く行かなくてストレス溜めてる日も、全部、私にぶつけてくる。
「俺の仕事が大変なんだよ。お前はここで遊んでるだけだろ」
って、よく言う。遊んでる?毎日「おまえ」って呼ばれて、笑顔を貼り付けて「きゅんきゅん♡」してるのを、遊んでるって言うのか。でも、反論なんてできない。壁に押し付けられて、小言を浴びせられるのが怖いから。私は厨房に戻って、深呼吸する。
通帳の数字が頭に浮かぶ。あと少しで400万円。お爺さんの店が手に入る。モラちゃんがここに来るのは、時間に融通がきくから。でも、私の時間は融通がきかない。このメイド服の制服を着て、「お帰りなさいませ♡」って言い続ける時間は、有限だ。
彼の監視が、いつか私の鎖になる前に、切らなきゃいけない。彼は今日も、閉店近くまでいるだろう。スマホをいじりながら、私を監視しながら、保険の営業成績を気にしながら。
給料泥棒。その言葉を、心の中で何度も繰り返す。でも、口には出さない。出したら、きっとまた壁に押し付けられる。だから、今日も耐える。あと少しだけ。
「弥生ちゃんの彼氏さんって……もしかして、モラハラ?」
同僚の一人、いつも一番キャピキャピしてるあかりちゃんが、厨房の隅で小さな声で呟いた。他の子たちも、チラチラと視線を寄せて、頷くような、首を傾げるような微妙な表情。
宇佐美さんが去った後の店内は、まだ少し張り詰めた空気が残ってる。
モラちゃんは奥のテーブルでコーヒーを飲んでるけど、カップを持つ手が、時々ピクッと震えてるのが見える。剣幕全開で宇佐美さんに食ってかかった姿を、みんな見た。
「おまえ、俺の女に何の用だ」って、声が店中に響いて、他のご主人様たちが一瞬静かになった瞬間。あの時のモラちゃんの顔、赤くて、目が血走ってて、肩を震わせて、私の腕を掴んだ手が白くなるくらい力が入ってた。
これまでは、みんな「弥生さんの彼氏さん来てますよ〜♡」って、からかうような、羨ましがるような声で言ってくれた。毎日来てくれるのが「愛されてるぅ」って、頰を突つかれながら笑われてた。でも、今日から変わった。
「あの人、また来ましたよ」って、声が少し低くなって、「弥生ちゃん、大丈夫?」って、目で聞いてくる子が増えた。厨房でオムライスを温めながら、同僚たちが私の背中に視線を寄せてくるのを感じる。誰も直接「モラハラじゃない?」とは言わないけど、その沈黙が、逆に重い。
私はトレーを抱えて、「大丈夫だよ〜、いつものことだから♡」って、笑顔で返す。でも、心の中では、胸の奥がざわついてる。みんなが見てる。これまで隠せてたものが、少しずつ剥がれ始めてる。
モラちゃんの「おい」「おまえ」が、店内で聞こえるようになったらどうしよう。壁に押し付けられる小言が、誰かに見られたらどうしよう。でも、同時に、ほんの少しだけ、解放されたような気持ちも混じる。
「もしかして」って思われて、「もしかして」って認めてくれる人が、この店の中にいるってことが、なんだか、初めての味みたいに新鮮で力強い。
モラちゃんはコーヒーを飲み干して、立ち上がる。私の方を見て、「おい、閉店まで待ってるからな」って、低い声で言う。いつもの監視宣言。でも、今日は声に少し焦りが混じってる気がする。
宇佐美さんの名刺を、私がポケットにしまってるのを知ってるから。
嫉妬?
いや、支配が揺らいでる苛立ちだ。
同僚たちが、厨房で小さく囁き合う。
「弥生ちゃん、今日の彼氏さん、なんかヤバくなかった?」
「腕掴んでたよね……痛そうだった」
「毎日来るの、ちょっとストーカーっぽくない?」
私は聞こえないふりをして、次のトレーを準備する。でも、耳に残る言葉が、胸に染みる。「モラハラ」って言葉が、初めて他人から出た瞬間。それが、私の心に小さな火を灯す。あと少し。資金が貯まるまで、耐えるって決めてたけど、みんなの視線が、「耐えなくていいよ」って、静かに背中を押してるみたい。
閉店まであと二時間。モラちゃんはまだいる。でも、今日はいつもより、店内の空気が違う。ピンクのくまがぶら下がる天井の下で、私の味方が、少しずつ増えてる。
名刺の感触が、ポケットの中で温かい。本物のコーヒー。個人的に話したいこと。あと少しで、手が届くかもしれない。
私は営業スマイルを貼り直して、次のご主人様に「きゅんきゅん♡」を届ける。でも、心の中では、もう少しだけ、この鎖を自分で切る準備を始めてる。