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事務所の片隅に、ひまり専用の「勉強机」を置いた。
元々は組員たちが麻雀やら賭け事やらで使っとった場所やが
今やそこには色鉛筆と、ひまりが大切にしとる図鑑が並んどる。
俺はソファで組の帳簿に目を落としとったが、ふと視線を感じて顔を上げた。
ひまりが鉛筆を握ったまま、じっとワシの手を見とる。
「……なんや、ひまり。ワシの手になんか付いとるか?」
「……ううん。おじさんの手、おっきいなぁって。…それ、痛くないの?」
ひまりが指差したのは、俺の拳にある古いタコと、いくつもの修羅場を越えて刻まれた小さな傷跡や。
俺は思わず拳を握り、膝の上に隠した。
「……ああ、これか。昔、ちょっとヤンチャした時の名残や。……怖かったか?」
「ううん。……強そうだなって。悪い人をやっつける、正義の味方さんの手みたい」
正義の味方、か。
吐き気がするほど似合わん言葉や。
この手でどれだけの人間を泣かせ、どれだけの不義理を働いてきたか。
ひまりの純粋な瞳に見つめられると、背負っとる看板の重みよりも、自分の過去の汚れが胸に刺さる。
「…ひまり、こっち来ぃ」
俺が手招きすると、ひまりはトコトコと寄ってきて、俺の膝の間に収まった。
俺は恐る恐る、岩のようにゴツゴツした自分の掌を開き、ひまりの小さな手と合わせた。
ひまりの手は、驚くほど柔らかくて、温かい。
俺の汚れた指先が、彼女の白く透き通るような肌に触れる。
「……お前の手は、人を救うための手や。…ワシみたいな、壊すだけの道具にしちゃあかんぞ」
「……?おじさんの手もそうでしょ…?大きくて、あったかいよ」
ひまりは俺の掌に、自分の頬をすり寄せた。
その瞬間、俺の胸の奥で何かが静かに崩れ落ちた。
ああ、そうか。
ワシはこの温かさを知るために、今まで泥水を啜って生きてきたんかもしれん。
なんて、親バカとでも言われそうなことを思ってしまう。
「……和幸。…ひまりの鉛筆、短うなっとる。明日、一番ええやつ買うてこい」
「兄貴、またっすか! この前買ったばっかりじゃないっすか!」
「…ひまりが勉強頑張っとる証拠やろが。……ついでに、あの、なんや……クマちゃんの可愛いシールも買うてこい。ご褒美としてな」
「ク、クマちゃんっすか!?兄貴、マジでキャラ変しすぎですよ……」
和幸が呆れた顔で事務所を出ていく。
静かになった部屋で、ひまりは俺の手を握ったまま、すやすやと寝息を立て始めた。
俺は眼鏡を外し、目元を覆った。
ひまり、お前がいつか本当のお医者さんになって
ワシのこの汚れた手を手当てしてくれる日が来るんやろうか。
……その日まで、ワシは死ねんな。
どんな地獄の番犬が追いかけてこようとも、この小さな手の温もりだけは、誰にも渡さんと決めたんや。
俺はひまりを起こさんよう、細心の注意を払って、その小さな体を抱き上げた。
腕の中に伝わる命の重みは、どんな名刀よりも重く、尊かった。