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それは、特別な日でも、特別な出来事があった日でもなかった。
ただの、なんでもない夜。
みことが、少し熱を出した。
風邪。季節の変わり目で、ちょっと冷えただけ。
「ごめんね……こんなことで寝込んで」
布団に潜るみことが、申し訳なさそうに笑う。
すちは「気にしないで」って軽く笑って、冷たいタオルを額に乗せた。
「……あのときのほうが、よっぽど怖かったな」
「……あのとき?」
「花吐いてたころ」
みことが少しだけ、目を伏せた。
それは、ふたりにとってずっと触れにくい記憶――だったはずだった。
でもすちは、ぽつぽつと語り出した。
「俺、たぶん、あのときずっと強がってた。みことが苦しんでんのに、何もできなくて……どうしたらいいかもわかんなくて」
冷えた指が、タオルの端を握る。
「それでも、俺が動揺したらみことがもっと不安になるって思って……ずっと、平気なフリしてた」
みことは黙って聞いていた。
すちの声は、いつもより少し低くて、少し震えていた。
「でも……今、お前がこうして布団の中で『ちょっと熱出ちゃった』って笑ってんの見て……」
そこで、言葉が止まった。
みことが顔を上げると、すちはソファに座ったまま、拳をぎゅっと握っていた。
「……あのとき、本当に……死ぬかもしれないって、思ってたんだよ。目の前で、花を吐いて……呼吸も苦しそうで……」
声が詰まった。
「助けられなかったらって、思った瞬間、頭の中が真っ白になった。今でも夢に見る。みことが、花びらに埋もれていなくなる夢」
そのとき、
ぽと、という音がした。
みことは見た。
すちの頬を、一粒の涙が伝って落ちたのを。
「……すち……」
「……なに」
「泣いて、いいんだよ」
小さな声に、すちは目を伏せた。
もう一粒、涙が落ちた。
「遅いんだよ、こんなの。……みことがあんなに泣いてたのに、俺、泣けなかった」
「それは、守ってくれてたからでしょ。俺の前で、崩れなかったのは……すちが、俺を一番にしてくれたから」
みことは、弱った体を起こして、そっとすちの背中に手を伸ばした。
「でも、もう俺は元気だよ。ちゃんと生きてる。だから今度は、俺がすちを支える番」
その言葉に、
すちはようやく声を震わせて泣いた。
何もできなかった悔しさも、
言えなかった怖さも、
全部、みことの胸の中で溶けていった。
ふたりはただ、抱き合っていた。
一粒の涙が、静かに夜に溶けて――
心の中に張っていた緊張が、ほどけていく。
この夜、みことはすちの弱さに触れた。
そしてすちは、初めて救われた側になった。
それでも――
ふたりの心はずっと、同じ温度でつながっていた。