テラーノベル
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あのとき、声を出せなかったのは、遥が、そこに立っていると気づいたからだった。
蓮司の指が、制服のボタンに触れたときも。
喉元をなぞる、ぞっとするような仕草をされたときも。
遥の視線が、自分に注がれていることを、確かに感じていた。
なのに、動けなかった。
声をあげて「やめろ」と言えば、
蓮司の手は止まったかもしれない。
それでも──
(あいつは、それを見て、どう思うだろう)
考えてしまった。
自分が何かを言った瞬間、遥の中の“何か”が壊れる気がした。
──遥が、壊れる。
意味がわからないまま、そう思った。
理屈ではなく、直感だった。
遥の目が、あまりにも脆かったから。
感情のすべてを押し殺して、ただ黙ってこちらを見ていた。
逃げたがっているのに、逃げられず、
助けたがっているのに、手を出せない──
そんな“見てはいけない痛み”が、確かにそこにあった。
(あのとき──俺が、叫んでいたら)
遥は、どうなっていただろう。
蓮司の手は止まって、教室は止まり、空気は崩れたかもしれない。
でも、遥の心は。
遥の中で、何かが“決壊してしまう”のではないかと──
そんな予感が、どうしても拭えなかった。
だから、黙った。
あの瞬間、自分は「遥のために黙った」つもりだった。
──でも、それはただの言い訳じゃないのか。
助けなかったことを、正当化してるだけじゃないのか。
本当は怖かった。
遥の前で、自分が“被害者”として見られるのが。
遥の中の、自分のイメージが変わってしまうことが。
(……俺は、ただ“いいやつ”でいたかっただけじゃないのか)
喉の奥がひりつく。
遥の姿を追って、教室を出たあと、
結局、何もできないまま、夕焼けの中に立ち尽くしていた。
あいつは、逃げた。
走って行った。その背中に、俺は追いつけなかった。
今さら、何を言えばいい?
追いついて、なにを伝えれば──この沈黙を埋められる?
わからなかった。
わからないまま、
それでも、遥の顔ばかりが、ずっと脳裏から離れなかった。
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