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沙羅と東京で会ってから数日。
霜月に入り、空を覆い尽くす重たい雲からは今にも雨が降り出しそうな気配がする。ビルとビルの間の道を肌を刺すような冷たい風が吹き抜けていく。
白い息を吐きながら、慶太はTAKARAグループ本社ビルへと足早に向かっていた。
エントランスホールを抜けてエレベーターに乗ると、やっと寒さから逃れた体が弛緩する。
慶太は深く息を吐き出した。
父親と最後に会ってから1週間、お見合いをするかしないか ”よく考えろ”と勝手に切られた期限でもあるのだ。
考えるまでもなく、慶太の考えは決まっている。
沙羅以外の女性などあり得ないのだから。
慶太は、表情を硬くしてオフィスに足を踏み入れた。すると、秘書の中山が待って居ましたとばかりに立ち上がる。
「おはようございます。社長、会長がお部屋でお待ちになっております」
慶太はコートを中山に預け、”来たか”と細くため息を吐き出した。
先日の返事が聞きたくて、こんなに早い時間にご出勤だとは、どんなに張り切っているのか……先が思いやられる。
鬱々とした気持ちで、ドアをノックした。
「おはようございます。会長」
健一は、慶太の顔を見るなり、落ち着かない様子で腰を浮かす。
挨拶も無しに開口一番
「慶太。それで、返事は?」
「もちろん、お見合いはお断りさせて頂きます」
慶太の答えを聞いて、健一は力が抜けたのか、どっさりとソファーに身を沈めた。
「あんな良い話し、逃してどうするんだ。誰か心に決めた人でも居るのか?」
健一は慶太の様子を窺うように一瞥を投げ、手元にあった封筒をテーブルの上に滑らした。
A4サイズの茶封筒、表面には何も書かれておらず、やや厚みがある。
お見合い写真とは明らかに違う物を渡された慶太は、訝しげに眉をひそめた。
「これは?」
健一は片眉を上げ、意地悪く答える。
「開けて見ればわかる」
仕方がないと諦めのような気持ちで、慶太は茶封筒の口を開ける。
中から出来てきたのは、1冊のファイルだ。
表紙をめくると、沙羅の名前と写真が目に飛び込んできた。怒りの感情が揺さぶられ、ドクンと鼓動が跳ね上がる。
ダンッとテーブルを叩き、声を張り上げた。
「こんな調査なんて卑怯なマネをして、楽しいのか‼」
激高する慶太に反して、健一は落ち着いた口調で話す。
「楽しいわけがあるか。ひとり息子が、バツイチ子持ちの女に引っ掛かっているんだからな」
「俺が誰と付き合おうと自由なはずだ」
「付き合うだけなら、何も言わない。しかし、結婚となれば話しが変わってくる。結婚というのは、家と家の繋がりだからな」
「違う! 結婚と言うのは、親から世帯を分け、新しく家族を作るということだ。俺は、自分が信頼できる人と家族になりたいだけだ。家と家の利益だけを追いかけても幸せは得られない」
それを聞いて、健一は楽しげに口角を上げた。
「まだ、若いな。家の利益になる結婚をしたからこそ、今のTAKARAの繁栄があるんじゃないか。バツイチ子持ち女に何が出来る⁉」
「父さんの結婚は、母さんを寂しい女にして、恋人を日陰に追いやっただけじゃないか。俺は、自分の力でTAKARAを盛り立て、家族を大切にする」
健一はグッと言葉を詰まらせ、返す言葉を探すように机を指先でコンコンと叩く。
その音が静かな部屋の中で、やけに響き耳障りに感じられた。
考えに行きついたのか、指の動きが止まり、健一はおもむろに口を開く。
「ほう。ずいぶん大層な口を利いたな。そもそも、お前が思っているほど相手が純粋な気持ちで付き合っているかどうか……バツイチ子持ち女がTAKARAグループ社長夫人の座を当てにお前に近づいて来たんじゃないのか?」
「彼女はそんな人じゃない!」
「それはどうだろうか? 試して見るか?」
鼻で笑う健一を慶太は鋭い視線で睨みつけ、唸るような声で威嚇する。
「彼女に何かしたなら、俺はTAKARAを退く」
慶太の必死な様を突くように、健一は|謀《はかりごと》を巡らせた。形ばかりに降参と肩の横まで両手を上げ、手のひらを見せる。
「わかった何もしないさ。その代わりと言っては何だが、今月末に東京のHotel coucher de soleil で親睦会があるのは知っているよな。あれに参加するんだ」
突然の親睦会などと話を持ち出したのは、なにがしの思惑が隠されているからだ。
年末に行われるHotel coucher de soleilの親睦会は、政治家や経営者、投資家が集まる所謂ビジネスクラブ。
慶太は、警戒を緩めずに聞き返した。
「親睦会⁉ 親睦会には毎年、父さ……会長が参加しているのにどうして?」
「深い意味はないさ。後継者として顔をつないでおいた方がいいだろう」
もっともらしい事を言って満足気に薄く笑う健一を、慶太は「この狸親父が……」と心の中で毒を吐いた。