「千紘!?」
千草の大きな声が聞こえたが、千紘はそんなものにかまっている余裕などなかった。家の中だというのに全力疾走で凪の後を追う。
たった今出ていったばかりだから、そんなに遠くには行っていないはず。そう思ったのに、エレベーター前には既に凪の姿はなかった。
だからといって階段を降っていくのも気が引ける。息切れ切れに走ったところで、エレベーターを待つ方が早い気もした。
なんでエレベーター1つしかないんだよ、と普段は気にも止めないのにイライラが募る。
ガチャガチャと下ボタンを連打して、ようやく開いたドアから体を滑り込ませた。乗り合わせた住民が驚いていたが、それも関係ないと貧乏ゆすりをする。
1階に着くと、居心地悪そうにしていた住人2人を押しのけて千紘は走り出した。
凪の家は把握している。送っていった時に頭に叩き込んだのだ。一緒に帰ったルートを思い出して角を曲がった。
小さな凪の背中がすぐに目に入って、千紘は安堵したのと同時に足を早めた。
「凪!」
かなりのスピードで近付いたにもかかわらず、凪は考え事をしていたのか千紘が腕を掴むまで気配に気付く様子はなかった。
「……なに? なんか、俺忘れ物した?」
「ちがっ、ごめん。兄ちゃんがっ」
ぜぇぜぇはぁはぁと息を切らす千紘が必死に口を開く。まだ肌寒い季節だというのに、千紘は大量の汗をかいていた。
「別に。なんもされてない」
「うそだっ、凪っ……怯えて」
「そんなことない」
そう言いながらも凪はやはり千紘とは目を合わせなかった。千紘は両手で凪の両手を握り、きゅうっと力を込めた。
「明日、来ないかもってっ、思って……」
千紘の発言に、凪は驚いたように目を見開いた。なんでわかったんだろ……。凪は心の中で呟く。
「……また、連絡する」
行くとは言わない凪に、千紘は唇を震わせた。
「やだ……。もう会えないの、やだ」
いつもは余裕たっぷりで、飄々としている千紘の目にぶわっと涙が浮かんだ。千紘は、今までとは確実に違う何かを感じていた。
連絡を無視されても、連絡先を消されても何だかんだ美容院の予約がキャンセルされることはなかった。そもそも真面目な凪がよっぽどの理由もなしに、一度入れた予約をキャンセルするはずがなかった。
もう会わないと何度言われても、落ち込むことはあってもここまで危機を感じることはなかったのだ。
写真で脅して愕然としている時も、怒っている時も、なんだかんだ凪は千紘と会ってくれた。本当にたまにでも電話に出てくれた。
けれど、今回は違った。写真で脅したところで、「千紘がそうしたいならそうすれば?」そんなふうに言われかねない。
セラピストを辞めるかもしれないと言ってる凪にとって、その写真が原因で客足が減ることももはや何の痛手でもない。
両親はいないようなもんだし、兄とも疎遠らしい。凪の写真が流出しようとも、誰かに迷惑をかけるわけじゃない、とも言うかもしれない。
だからきっともう、脅しは通用しない。凪を縛り付けていたものが1つ消えた。あとは快感と気持ちだけ。
快感を得たいがために、体目的で千紘と寝たにせよ、千紘にとっては理由などどうでもよかった。しかし、あんな怯えた目をした凪がたかが快感目的でまた抱かれにくるだなんて考えられなかった。
これで凪を繋ぎ止めておいたものがもう1つ減った。残るは凪の千紘に対する気持ちだけ。だけどこれは、千紘も実感したことのないものだった。
体の相性は悪くないと凪は言ったが、好きだと言われたことは一度もない。気持ちがあれば乗り越えられる問題も、そもそもそれがなかったら、何もない。
千紘は、これ以上凪を留めておく術を全てなくした気がした。
「……泣いてんの?」
凪は、ふっと笑って千紘の頭にぽんっと手を乗せた。
千紘は軽く頭を下げて「こんなの、泣く……」と言いながら服の袖で目元を擦った。
「泣くようなことじゃない」
「泣くようなことだよ。……俺、ほんとに凪のこと好きなんだよ」
「……わかってる」
わかっていても、凪にはその気持ちがずっしりと重たくのしかかって息苦しかった。今までは好きだと言われても呆れたり、笑ったりできたのに、今はそれがとても重たく感じた。
いっその事体目的だったのなら、何も言わずに消えてしまえるのに……凪はそう思いながら千紘の頭から手を離す。
「連絡はする……」
凪がポツリと言った。
「……明日は?」
「とりあえず、連絡する」
「……明日?」
「……明日か、明後日か……もっとむこうか」
それは凪にもわからなかった。けれど、今は明日の夜は千紘に会いに行こうだなんて気持ちにはなれなかった。でも明日になったら気持ちは変わるかもしれない。変わらないかもしれない。
それでも連絡もせずに勝手に消えることだけはやめようと思えた。出会いが最悪だったにしろ、また会ってもいいと思えた相手だ。一緒に住むのも悪くないかも……なんて一瞬でも思えた相手だ。
休職することだし、仕事の疲れが癒えたら色んな考えが変わるかもしれない。冷静な頭で考えたら、本当の答えがでるかもしれない。
だからそれまでは、軽はずみな発言は避けようと考えた。
「……明日会いたかった」
「それもわかってる」
「今日、凪から誘ってくれたの嬉しかった」
「うん」
「……好き」
「また連絡する」
千紘の言葉は、凪に打ち消された。何かを言おうとした千紘に、凪はすっと背を向けた。千紘も、もうかまうなと言っている背中をこれ以上追いかけ回すこともできなかった。
いつになるかはわからない。しかし、凪はまた連絡すると言ったのだ。千紘は張り裂けそうな胸を押さえて、じっとただその時を待つしかなかった。
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