帰還
そろそろ行燈に灯を入れようかという時分、粉挽慈心こなびきじしんが徳利を傾けながら一刀斎に訊いた。
「のう一刀斎、志麻が旅立ってからもうどれくらいになる?」
ここは、蛇骨長屋の一刀斎の借間である。
「さあな、かれこれ二十日ほどか・・・まだ一月にはなるめぇ」
右手の盃で酒を受けながら、気怠そうに一刀斎が答える。
「お前は一度、志麻の命を狙った子猿を追って二川宿まで行っているからよかろうが、お梅婆さんなぞこのところ毎日、いつ戻って来るんだと聞いて来る。まったくうるさくって仕方がない」
「そういうお前ぇさんはどうなんだい?志麻をまるで孫みてぇに可愛がってたじゃねぇか、本当はお前ぇの方が志麻に会いてぇんじゃねぇのかい?」
上目遣いに慈心を見る。
「馬鹿言え、儂はただあいつが無事かどうか心配なだけじゃ」
「無事だろうさ。志麻の腕は半端じゃねぇよ、道中のゴマの蝿なんぞにやられる筈はねぇ」
「それはわかっているんじゃが・・・」
「今頃無事報告を終えて、親に甘えてる頃だよ」
今度は一刀斎が慈心に酒を注いでやっている。
「ならいいんだが・・・」
「お紺だってついているんだ。あいつは世間慣れしてるから大抵のことじゃ動じねぇ、互いに足りねぇところを補って上手くやってるさ」
「そういやお紺は伊勢参りだったな、帰りはまた志麻と一緒か?」
「さあな、帰りのこたぁ聞いてねぇ。それに、こう言っちゃお前ぇをガッカリさせるかもしんねぇが、志麻が帰って来るとは限らねぇぜ」
「何故だ?」
「考ぇてもみろ、仇討ちの目的は果たしたんだ、親がこれ以上志麻を江戸に置いておく理由はねぇ」
「そう言われりゃ・・・そうかもな」
慈心は肩を落として盃を啜り上げた。
「兄貴居ますか?」戸障子の向こうから声がした。
「おう、銀次か入りねぇ」
苦労して戸障子を開けながら銀次が顔を覗かせた。
「相変わらず立て付けの悪い戸だ、いいかげん大家さんに言って直してもらっちゃどうなんです?」
「コツがあんだよ、志麻ならサッと開けるぜ。それに、そのままの方が不意に襲われた時刀を構える時を稼げらぁ」
「誰が兄貴なんか襲うんです?取られるものなんて何にもないでしょうに?」
銀次が中に身を入れるとまた苦労して戸を閉めている。
「銀次、その手に持っているものは何じゃ?」慈心が訊いた。
「爺さん目敏いな、軍鶏肉と葱だ」
「おっ、気が効くじゃねぇか!」一刀斎の声が高くなる。
「兄貴、七輪と鍋を借りますぜ」銀次は流しに食材を置くと、土間の隅にあった七輪に火を入れ始めた。
「軍鶏鍋か、久しぶりだなぁ」慈心が息を吐く。
「このところ爺さん元気が無いからな、肉でも喰って精をつけなきゃ志麻ちゃんが戻って来る前に死んじまうぜ」
「銀次、お前は優しいなぁ、それに比べて・・・」慈心が一刀斎を睨んだ。
「何だよ、俺ぁほんとの事を言ったまでだ、変に期待もたしちゃ後が悪ぃだろう」
「まぁ、どっちも優しさじゃあるけどよ・・・」慈心の背中がまた小さくなった。
「なんだかしんみりしちゃったな、ま、鍋が煮えるまで酒でも呑んでてくれ」
銀次は流しで肉を切り始めた。
「ところで、今朝横浜港に蒸気船が着いたってよ。船頭の秀が言ってた」
「近頃ぁ各藩とも蒸気船を仕入れてやがるからな。どこの船だい?」
「それが大名の船じゃないんで。なんでも長崎の亀山なんとかってぇ所のいろは丸って船だそうで」
「なに?」一刀斎が一瞬腰を浮かせた。
「どうした一刀斎?」慈心が怪訝な顔で見る。
「い、いや、なんでもねぇ・・・」
「なんだい兄貴、蒸気船なんて江戸じゃもう珍しくも無いだろうに」
「はは、そうだなすまねぇ・・・ついに商人が黒船持てる時代になっちまったのかと思ってよ」
「まぁ、商人っつうか商社だっつう話ですがね」
「商社というのはなんだ?」慈心が訊いた。
「俺もよくは知らねぇが、講や組合みたいなもんじゃねぇのかなぁ?」
「なんだ、はっきりしない奴だな」
「おっと・・・」
鍋が煮立って来たのでその話はそのまま立ち消えになった。
鍋も喰い終わって、徳利の酒も底をついて来た頃、銀次がポツンと呟いた・・・
「ほんと、志麻ちゃん早く帰ってこねぇかなぁ・・・」
その時・・・なんの前触れも無く戸障子が開いて、そこに志麻が立っていた。
「ただいま!」
「え・・・???」
「志麻!」
「本当に帰って来た!」
「お前ぇ本当に志麻か!足付いてんだろうな!」
「何言ってんのよ!ほら、この通り!」
志麻が草鞋履きの足を上げて見せた。
「兄貴、足付いてるぜ!」
「間違いねぇ、帰って来やがった!」
「じゃ、じゃが少し早過ぎやせんか、この日数で伊勢往復は?」
「そうだな、志麻ちゃんはともかく、お紺姐さんも一緒じゃあ無理だ」
「そういやお紺はどうした、一緒じゃねぇのか?」
「と、言う事は・・・やっぱりお化け!」
まったく支離滅裂だ。
「もう、勝手に早とちりしないでよ、私たち黒船で帰ってきたの。お紺さんは置屋の女将さんにご挨拶に行ってるわ」
「おい、志麻、黒船って言ったか?まさか今日入港した・・・」
「いろは丸よ、亀山社中の坂本さんって人に乗せてもらったの」
「坂本〜!」一刀斎の声が上擦った。
「そう、坂本龍馬さん。気さくでいい人よ」
「ウムムムム・・・」
「ん?どうした一刀斎、お前今日は少し変だぞ?」
「い、いや、なんでもねぇ」
「兄貴の変は今に始まった事じゃねぇよ爺さん」
「む、そりゃそうじゃが・・・」
「とにかく、せっかく帰って来たんだから上げてくれたっていいじゃない!」志麻が痺れを切らして叫んだ。
「志麻ちゃん!」
志麻が開け放ったままの戸からお梅婆さんが飛び込んで来た。壁の薄い長屋の事、隣家の声は筒抜けだ。
「また、ややこしいのが入って来やがった」
「こら銀次、何言ってんだい!わたしゃこの日を一日千秋の想いで待ってたんだよ!」
お梅は志麻に飛び付いてギュッと抱きしめた。
「お、お梅さん・・・苦しい・・」
「本物だ、本物の志麻ちゃんだ・・・ううう」
ついに志麻の胸に顔を埋めて泣き出した。
「なんだかお梅婆さんに毒気を抜かれちまったなぁ」銀次がしらけ顔で呟いた。
「まあ、上がれ志麻。話はそれからだ・・・なあ、爺さん」
一刀斎が慈心を振り返ると、相好を崩して呆けていた。
「まったく、年寄りにゃかなわねぇ・・・」
*******
「う〜む、そんな事があったのか・・・」
志麻の長い話を聞き終えて、一刀斎が唸った。
「それで二人して黒船で帰って来たのかい?」
「そういう事、だからまた暫くこの長屋にお世話になるわ」
「そりゃ目出てぇこったが、津藩の追手が来やしねぇか?」
「う〜ん、藩も色々ごった返してるからそんな暇ないと思うけど・・・」
「なぁに、そんときゃ私らが守ってやるさ、ここが一番安全だよ、ねぇ慈心さん」
「おうさお梅婆、可愛い孫娘に手を出す奴は、儂の居合で真っ二つじゃわい!」
「ちえっ、もうすっかり孫のつもりでいやがんの」銀次が呆れて毒付いた。
「お爺ちゃんお婆ちゃんありがとう、とっても心強いわ」
「まぁ、お梅婆さんの言う事にも一理ある。この前の忍者の一件もあるからな、戦い方は心得てらぁ」銀次もまんざらでは無さそうだ。
「そうと決まれば酒盛りのやり直しだ。銀次、酒屋叩き起こして酒買って来い!」
「ガッテンだ!」
「わたしゃ、晩のおかずの残りを温っめ直して持って来るよ!」
銀次とお梅婆が飛び出して行った。
「ところで志麻、坂本って野郎はいつまでこっちにいるんでぇ?」
「え、なんで?」
「なんでって、お前ぇ達を無事江戸まで送り届けてくれたんだ、例の一つも言わにゃなるめぇ」
「そうじゃ、儂だって一言例を言わにゃ気が済まない」
「なぁに二人とも、急に私の保護者ぶっちゃって。でもまぁ、結構お世話になっちゃったからなぁ・・・確か明日までは船に居るって言ってたけど、その後京に行くんだって」
「そうか、京になぁ・・・暇ぁ見つけて行って見らぁ」
「そんときゃ儂も連れて行くんだぞ」
「分かった分かった、行くときゃ声をかけてやるよ」
「頼んだぞ一刀斎」
「ああ・・・」
一刀斎はどことなく気のない返事をした。
「持ってきたよ!」お梅婆が器に布巾を被せてやって来た。「鰤ぶりの煮付けと里芋の煮転がしだよ」
「お梅婆ちゃんありがと、婆ちゃんの煮物私大好きだよ!」
「そうかい、これから毎日でも作ってやるさ」
「お梅婆、志麻を甘やかすんじゃない、嫁に行けなくなるぞ」慈心が真面目な顔で宣った。
「大丈夫、私お嫁になんか行かないから」
「志麻ちゃんみたいな娘なら引く手数多さ、な、そうだろ一刀斎?」
「ん?ああ・・・そうだな」
「なんだい、急に上の空になっちゃって?」
「い、いや、どっちにしたって貰い手なんかねぇだろ、こんなじゃじゃ馬」
「なんですって!」
「おい、一刀斎、せっかく帰って来たんだ、志麻を怒らせるようなことは言うな」
「いいわよ、一刀斎なんか大嫌いなんだから!」志麻は一刀斎に向かってベェ〜と舌を出す。
ガタガタと戸障子が鳴った。
「お、銀次が帰ってきたみてぇだ。志麻、開けてやれ、奴ぁいつまで経ってもコツを覚えやがらねぇ。本当に凄腕の掏摸なのかねぇ?」
「しょうがないわねぇ!」志麻は立ち上がると土間に降りて戸障子を開けた。
「酒、買って来たぜ!これだけありゃ朝まで世話無しだ!」
「よし、長屋の奴らも呼んでやれ、今夜は志麻の帰還祝いだ!」
たった一月この長屋を留守にしただけなのに。志麻はやっと本来の場所に戻って来たような気がして、ホッと息を吐いた。
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