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靴箱の前に立った時点で、嫌な予感はしていた。
ざらついた空気。視線。沈黙。
──“何か”が変わっていた。
廊下に鳴る靴音が、妙に単調で、
誰もが誰かの呼吸に合わせるように動いていた。
(気のせいじゃねぇな)
自分がいなかったこの数週間で、学校は“別の生き物”になっていた。
教室の前に立つ。扉を開ける。
「…………」
一瞬だけ、全員の目が、日下部に向いた。
それは、驚きでも、歓迎でもない。
──“観察”。
「……おはよ」
誰かが言った。
声は明るく、笑っていた。
でもその笑顔は、何かを“確認する”ように貼り付けられた仮面だった。
「うわ、日下部じゃん」「生きてたんだ」「あれ?転校したんじゃなかったの?」
誰ひとり本気で笑っていない。
揶揄、というより“選別”。
敵か、仲間か。それとも──新しい獲物か。
その輪の中に、遥はいた。
前と同じ席。窓際。
俯いて、机に額をつけている。
寝ているわけではなかった。顔を見せたくないのだろう。
指先だけが、かすかに震えている。
(……っ)
日下部は、名前を呼びそうになる。
でも、そのとき──
「おい遥、立って」
そう言ったのは、前の席の女子。
口調は明るい。冗談めいて。
でもその笑顔の奥に、“命令”の響きがあった。
「ちゃんと挨拶してあげなよ。日下部くん、久しぶりなんだから」
教室に、一瞬だけ沈黙が落ちる。
誰かが笑った。
別の誰かが咳払いをした。
そして──
遥は、立ち上がった。
ゆっくりと。
壊れた人形のように。
顔を上げた遥の目が、日下部を捉えた。
その瞬間、日下部の呼吸が止まった。
──何もなかった。
怒りも、悲しみも、喜びも、痛みも。
全部が“消えたあと”の顔だった。
けれどその“空白”の中に、確かに残っていた。
(……気づいてんのか)
遥は、ほんの一秒だけ目を細めた。
日下部の“観察”に気づいた上で、それを拒絶しない──が、受け入れもしない。
「……おかえり」
声は掠れていた。
聞き取れるぎりぎりの音量。
それだけ言って、再び席に座った。
それを合図に、周囲の笑いが静かにこだました。
「ほらー、やっぱ律儀じゃん」「ちゃんと挨拶するんだね〜」
何人かが机を叩いた。誰かが足を引っかけて、椅子を揺らした。
教師はまだ来ていない。
(……これが、今の“日常”か)
すでに全員が、それぞれの役割を理解していた。
遥は「従う存在」として成立しきっていて、
誰もがそれを“当たり前”に扱っていた。
笑いながら命令する。
冗談の皮をかぶせて命じ、命じ返す。
そうして一日が始まり、
一日が終わる。
それが、「このクラス」の構造だった。
(──触れられねぇ)
日下部はそう思った。
そして、同時に悟った。
(……まだ、間に合う)
“壊しきられる前”には、確かに何かがあった。
だがそれは、“壊されたあとの”今でも、どこかに残っていた。
もう一度、遥が自分の方を見た気がした。
視線だけが、言っていた。
──「お前が来ても、もう意味はない」
けれどその裏に、別の声が埋もれていた。
──「それでも来たなら、見ろ。全部、見てから決めろ」
日下部は、無言で席についた。
全員が“彼を試している”のを、肌で感じながら。
遥の背中は、窓からの逆光の中で、静かに揺れていた。