コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
それからユカリは一週間ほどかけて、最高傑作と名高い真珠を求め、盗賊たちの案内のもとシュジュニカ行政区を巡った。
湖畔の街鯰の港。東高地に寄り添う傾き街。旧王都リンデ。どこもそれぞれに美しく、それぞれに寂しい街だった。古王国のかつての栄華の幻影が所々に見え隠れし、はなから栄えていない小さな町々村々以上に侘びしさを感じさせる。
そうしてユカリは、ただただ真珠の刀剣リンガ・ミルの光る時を待ち、しかし全てが期待外れだった。もしかすると貝の王が言っていた『最高傑作の真珠に近づけば光る』の近づけばが思いのほか至近距離ということなのかもしれない。もしそうだったなら、と考えるのも嫌になる。
シュジュニカ行政区の随所にある盗賊団の薄暗い塒で寝起きするのも、ユカリは気が付くと慣れてしまった。盗賊たちの自慢話によるとシュジュニカ行政区どころかシグニカ統一国全体に隠れ家が点在しているらしい。ユカリの思いのほかドボルグの盗賊団は大規模な組織だった。多くは貧民窟にあり、貧民窟の多くは四つの低地の行政区にあって、高地にはないらしい。ただし隠れ家に関しては少ないながら高地にも用意しているようだ。
そしてとうとう盗賊団の獲物の一覧のシュジュニカ行政区にある真珠の全てを調べ終わってしまった。まだ三つの行政区に沢山の真珠が待っているが、区を移動するにはただでさえ煩雑な手続きが必要で、外国の人間となるとさらに複雑な認証を求められ、盗賊ともなると様々な偽造を行う必要があり、時間がかかるそうだ。
ユカリは暇に飽かしてバニムークの街の隠れ家を掃除し、ドボルグの表向きの職業である宝石店を冷やかしに行き、店番をし、ベルニージュとレモニカの無事を神に祈り、もはや一年近く弓に触れていない自分が狩人の神に祈って良いものかと悩んだ。
ある日は故郷オンギ村の豚の燻製を使った羹を何とか再現できないものかと、貧民窟にない食材を求めて街を巡った。貧民窟と違ってちゃんとした建物が並んでいるが、余所者のユカリの目には奇異に映る。
その屋根は白樺の皮で葺かれているが、土が盛られ青々とした草が生えている。春の野原が屋根々々に広がっているのだった。ほとんど土に埋まった家まであった。反面、通りは石畳に覆われているので、空を見上げると地面の裂け目の底に街が作られているかのような錯覚に陥る。この屋根はこのバニムークの街だけでなく、このシュジュニカ行政区だけでなく、シグニカ統一国が連立国だった時代よりさらに以前の古くから受け継がれる伝統的な家屋なのだそうだ。
ユカリは好奇心に背中を押されて商店を巡り、ついでにベッターのために靴用の革紐を買った後、そもそもシュジュニカの土地では伝統的に豚を食べる文化がないのだ、と買い物に付き合ってくれたレシュに聞かされた。
「もっと早く言ってくださいよ」とユカリは不満を零す。
「豚を探してるって聞いてないわ。羊じゃ駄目なの? 燻製よ」
店先に吊るされた丸裸の羊を指さしてレシュは言った。
ユカリは首を横に振る。羊と豚は似ていない非なるものだ。それがたとえ唾の湧き出る焼いた肉の芳醇な香気を湛えていたとしても。
「そういえば駱駝肉が豚肉に似てるって聞いたことあります。食べたことないですけど」とユカリは相槌の代わりに呟く。
大通りの脇に入ったところに商店に囲まれた円形の小さな広場があって、そこは肉の区画であり、芳ばしい匂いが充満していた。広場の中心には篝火を模した彫像があり、このような小さな広場が幾らかの距離をおいて連なり、商店街を成している。隣には八百屋の広場、さらに隣には塩や胡椒、香辛料の広場だ。何も照らさない篝火の彫像はバニムークの街だけではなく、低地の街の通りには必ずある。全ては救済機構とその教えへの恭順を示すものだ。
早朝の買い物に付き合ってくれたレシュはあくびを手で覆いながら言う。「私は聞いたことすらない生き物だわ。駱駝? ミーチオンにはよくいるのかしら? その、獣? 鳥?」
「獣ですね。行商人が連れているのを見たことがあります。土地によっては驢馬以上に重用される荷運びの獣です」ユカリは旅を出てから初めて見た駱駝の姿を思い浮かべる。馬よりも大きくて、砂色の毛に覆われ、背中が瘤みたいに盛り上がっている生き物だ。「でも、たしかアルダニやサンヴィアでは見ませんでしたね。まあ、南の熱い風の吹く砂漠の生き物らしいですしね」
「じゃあいるわけないし、売ってるわけないじゃない。ここは雪と氷のシグニカよ?」とレシュはもっともなことを言う。
「まあ、仕方ないですね。それに羊も美味しいですし――」
「わ! 何かしら、あれ!」遮るようにレシュが声を上げる。「速いわ! もしかしてあれが駱駝? ユカリ、駱駝じゃない?」
そんな訳がないと思いつつもユカリはレシュの視線の先をたどる。するとそこには多毛で巨大な馬、銀毛の怪馬、毛長馬がいた。ユビスだ。大通りを疾走し、見る間に視界から消えた。輿の如き鞍を乗せたユビスに跨って、なお様になるほどの巨大な男が円套を翻して駆っていた。ユビスを盗んだ者に違いないだろう。ショーデンの港町で聞いた目撃情報に一致する。確かに盗人ながら武人と称されるに相応しい巨躯だ。
ユカリは駆け出す。すぐさまグリュエーが後押しする。普通の馬よりも速いが、ユビスにとっては速足であることに気づき、ユカリは追いつけると判断をした。
見慣れぬ馬の走り過ぎる姿と大風を逆巻いて後を追う少女の姿を目撃したバニムークの街の人々が、悪夢の底から這いあがってきた怪物に見えたかのように悲鳴を上げる。
ユカリは慌てて草に覆われた春の屋根の上に飛び上がるが時すでに遅し、ユビスの乗り手は人々の悲鳴に気づいて振り返り、ユカリを見止めると襲歩に切り替えて走り去った。頭巾の付いた分厚い円套の下に鎧を着こんでいるらしく、兜の反射する鈍い光が流星の如く、幸運の如く、ユカリから離れ去っていく。
「しくじった」ユカリは己を責める悪癖を認識しながらも自らの心を自ら締め上げてしまう。
気づかれれば速度を上げられる、そんな単純なことになぜ思い至らなかったのだろう。
「ごめんね、ユカリ」とグリュエーが謝り、ユカリは冷静さを取り戻す。
「どうしてグリュエーが謝るの? 何も悪いことないと思うけど」屋根の上から飛び降りてユカリは言う。
「だってグリュエーが遅いから」
堅い地面に降り立って数瞬の沈黙ののち、ユカリは一人大きく笑う。周囲にいる人々の魔法使いを見るような目に曝されながら。
「何が可笑しいの!?」とグリュエーはからかわれたかのように反発する。
「だってグリュエー、自慢じゃないけど私の方が遥かに遅いよ」
グリュエーはくすぐるように柔らかく吹きつける。「それは、そうだね。ユカリももっと速くなれるといいね」
「うん。頑張る」
貴婦人アギノアはユビスに跨っていなかった。しかしユビスを駆っていた男は目撃者に教わった姿に一致している。この町に滞在しているのだろうか。
グリュエーが愚痴るように囁く。「それより何でユビスは馬泥棒に従ってるの?」
グリュエーの言うことももっともだ。人間不信気味だったユビスをこうも簡単に手なずけられるとは。
「さあ、脅されてるのかも」とユカリは最初に思いついた適当な思い付きを話す。
そこへ息を切らせて駆けつけたのはレシュだった。ユカリはすっかり忘れていた。
レシュは何も言わず、ただただユカリを睨みつける。
「ごめんなさい、レシュさん」
息を整え、呆れた様子でレシュは言う。「ユカリ、いくら駱駝肉が食べたいからって」
「違います!」
その後、幾つも積み重なった誤解を解くのにずいぶん手間取ってしまった。
買い物は切り上げて、二人は盗賊団の隠れ家に戻る。追いかけても追いつけない以上、必要なのは人手だ。
例の財物に溢れた大広間には首領ドボルグ以下、何人かの盗賊がユカリたちの帰りを待っていた。
「遅いぞ、嬢ちゃん。何をしてた?」とドボルグが一人椅子にふんぞり返って言う。
「別に呼び出された訳でもないのに遅いも早いもないと思いますけど。真珠に詳しそうな馬泥棒を見かけたので追いかけてました」
ドボルグが身を乗り出す。「何!? 例の奴か。どんな奴だった!?」
「遠目に見ただけですけど、鎧の上に、頭巾付きの円套です。分厚いけど古びた感じの」
「間違いない、奴だ。奴も頭巾を目深にかぶっていたが、さらに何かで顔を覆ってたんだ。兜だったか」ドボルグはそう言って、首を傾げるユカリにさらに説明する。「そいつが俺の店に宝飾品を売りに来た。毛むくじゃらの馬鹿でかい馬に乗ってきたんだ。持ち込んできたのは骨董品だったが、相当の値打ち物ばかりだった。が、価値を知らねえ馬鹿だった。持ってる物全部買い叩いてやろうと思ったんだが、十分な金額に達したとやらで出て行きやがった。そしてその中に、俺の目に狂いがなけりゃ、間違いなく一線を画す品があった。真珠をあしらった冠だ」
そう言うとドボルグは何かを待つようにユカリを見つめる。ユカリも訳も分からず見つめ返す。
苛立ちを隠さずドボルグが言う。「それで?」
「というと?」とユカリ。
「真珠剣はどうした? 奴を追いかけたんだろう? 光ったのか?」
そういえば、なぜユビスを追いかけている時にリンガ・ミルの剣が光っているかどうか確認しなかったのだろう。完全な失敗にユカリは頭を抱える。
察した盗賊たちが疑いの目をユカリに向け、ドボルグが口を開く。
「嬢ちゃん。あんたがとんでもない魔法使いなんだろうことは分かっているが、もしも俺たちを騙そうってんなら、これ以上の協力はできないが」
「違うんです! 本当に、咄嗟のことで、忘れてて」
ドボルグがどう判断したのかユカリには分からなかったが、それ以上の追求は受けなかった。
「今、シュジュニカ中に奴の特徴を連絡している。見つかり次第追う。いつでも出れるようにしておけ」
「はい。分かりました」落ち込むユカリはそれ以上の言葉を持ち合わせていなかった。
盗賊たちは大広間から出て行く。ただレシュを除いて。
「落ち込まないで。まだ生きてるだけましなんだから」とレシュは満足そうに言う。
「そういえば連絡って?」とユカリは尋ねる。
「色々あるけど、シュジュニカ中って話ならたぶん伝書鳩ね」とレシュは教えてくれた。
ユビスを目撃した二日後には連絡が入った。ここバニムークより南西にある街の連絡によると一日前に見かけ、すでに西へと去ったとのことだ。
ユカリは早朝からレシュに叩き起こされ、服の裾に文句を言われ、馬に乗せられ、気が付けば西へと向かって長らく整備されていない石畳の街道を走っていた。他には盗賊団の首領ドボルグと十人の手下たち。ユカリの他にも何人か寝ぼけ眼で馬を駆っている者がいる。
軽快な馬の蹄の音で目が覚めてきたユカリはドボルグに並走して声をかける。
「前に言ったと思いますけど、普通の馬では絶対にユビスに追いつけませんよ」
ドボルグはちらりとユカリの方を見て言う。「だが嬢ちゃんの馬が遠回りをしていたなら?」
ユカリは首を右に左に首を傾げて言う。「はあ。それは、追いつけるかもしれませんけど。でもなぜ?」
「さあな。馬泥棒に聞いてくれ。報告によると南西方向に弧を描きながら西へと向かっているそうだ。行き先は間違いなく北高地を穿つ大隧道を擁する逃げ道の城邑だろう」
そうだったなら良いが、腑に落ちないユカリはシグニカの地図を頭に思い浮かべる。
シュジュニカ行政区の北に広がるフォーリオンの海と接する海岸線は歪ながら東西にまっすぐ伸びていて、バニムークの街から真西に向かった突き当り、山脈の麓にカウレンの城邑がある。
ユカリはふと思い出す。
「海が怖いって言ってました。馬泥棒の、連れの方が」
ユカリの言葉にドボルグは顔を顰める。「だからどうした。海に入るわけじゃねえだろ」
「見るのすら、それか近づくのすら怖いのかも」とユカリは妙な自信を持って言う。
今のユカリもフォーリオンの海に対してほとんどそれに近い気分だからだ。同じような目に遭ったはずもないが、そういうこともあるのだ。
「じゃあそもそもなぜバニムークに来たんだ。海の街だ、あそこは。知らなかったってのか?」
「そもそも二人はユーグ・ラスの巡礼道から山を抜けてきたんです。ただ単に一番近くの街に寄っただけだと思います」
「トルム・コルールの山を越えた?」ドボルグは今にも人を殺しそうな目つきでユカリを睨みつける。「毛むくじゃらででかいとはいえ、馬じゃないのか? あそこを越える馬鹿な巡礼者でも馬を連れて行く奴はいないぞ」
「毛長馬っていう、特別な馬です。山道が得意なのかどうかは知らなかったですけど」
「つまり、その気になれば北高地を山越えすることもできるわけだ。たとえ大隧道を抜けることができなかったとしても」
「でも私たちは大隧道を抜けるための通行証を用意できていない」とユカリは呟く。
ドボルグは返事をしない。
つまりアギノアたちが大隧道を越える前にユビスに追いつかなければ、馬泥棒を捕まえることはずっと難しくなるということだ。そしておそらく最高傑作の真珠を手に入れることも。