実際娘の江根見紗英自身が、自分の父親が営業部長の江根見則夫であることを笠に着ている節があるから尚更のこと。
(出世のために長年付き合ってきた恋人を裏切って上司の娘に乗り換えたか)
胸くその悪いものを見てしまったと思った。
きっと信じてきた恋人に裏切られた玉木天莉は泣きじゃくっているか、怒りのままに振舞っているかのどちらかだろうと思って彼女を見たら、凛とした表情のままその場を立ち去るところで。
その横顔に、何故か強く心を奪われた尽だ。
今思えばあれをきっかけに玉木天莉という女性に興味を持ったし、自分の計画を遂行するパートナーに選ぶなら彼女が適任だとハッキリと自覚したのだが。
一方、当の天莉が、これまでほとんど接点もなかったような男に突然そんな提案をされて、驚かないはずがないことも十二分に理解しているつもりだった。
***
「ふへ?」
と言う、何とも間の抜けた声を発したのち、「……あ、あ、あ、あのっ。お、お、お、仰られている意味が分かりませんっ」と盛大にどもりながらも、当然のように拒絶の意思を含んだ言葉が返ってきたから。
尽はそれも想定の範囲内とばかりに肩越し、背後に寝かせたままの天莉をゆっくりと振り返った。
そうしながらほんの少し眼鏡のブリッジに触れて、これ以上議論するのは煩わしいんだがね?と言わんばかりに角度を直したのは、実は計算づくだ。
「――では聞くが、キミは今から自力で自宅まで帰り着けるのか? よしんば無事帰宅できたとして、風呂や食事にまで気を回せるゆとりがあるようには見えないんだがね?」
反論の余地はないだろう?という吐息とともに眼鏡越し、わざと冷ややかな視線で見下ろせば、天莉がグッと言葉に詰まったのが分かった。
「俺が今ここにいるのは、たまたま忘れ物を取りに戻っただけに過ぎない。――明日も早いし、出来れば寄り道などせず真っすぐ家へ帰り着きたいんだ。生憎こう見えて、体調不良の部下をそのまま見過ごしておけるほど冷血漢でもないんだよ。もちろん、キミが抵抗を感じる気持ちも分からなくはないが、俺の顔を立てると思って大人しく従ってはくれまいか?」
実際にはここまで上がってきたのはたまたまなんかじゃない。
二十二時前――。
運転手に送られて、秘書とともに社用車で会社まで戻って来てみれば、いつもは電気が消えているはずの七階に明かりが灯っているのが見えて。
(あれは……位置的に見て総務課か?)
元々はそのまま自分の車に乗り換えて帰宅するつもりだった尽だが、こんな時間まで一体誰が仕事をしているんだろう?と気になってしまった。
何より、〝総務課〟というのが引っかかった尽だ。
(まさかまた玉木天莉が残っているんじゃないよな?)
今まで天莉が江根見紗英のせいと思われる残業を、幾度となくこなしていたのを尽だって知らないわけじゃない。
玉木天莉は優秀な社員だが、どうもアレコレ抱え込みがちなところがあるから。
総務課には――というか江根見紗英の扱いについては――、上に立つ者として一度梃入れをせねばと思っていた矢先でもある。
(先週末あんなことがあってすぐの、今朝の朝礼での報告会だ。もしまた同じように無能な後輩から仕事を押し付けられていたとしたら……彼女は相当しんどい思いをしているだろう)
朝イチで営業企画課、総務課の双方で横野博視と江根見紗英の婚約が報じられたことは、尽の耳にも届いていたから。
苦々しい思いとともに社屋を見上げて、「少し上の様子を見てから帰る」と告げた途端、「わたくしも一緒に参ります」と、すぐ横に立つ秘書の伊藤直樹が申し出た。
それを制するようにして、「もう遅いから必要ない」と言ったら、あからさまに眉根を寄せられてしまう。
「では、わたくしの業務時間は今この時を以って終了したと思ってよろしいですか?」
どこか慇懃無礼に告げられた言葉へ尽がうなずいたと同時、はぁ~っとわざとらしく吐息を落とす気配がして。
「――じゃあこっからは友人として言わせてもらう。ひとりになったからって妙な真似はすんなよ、尽。……お前は僕がいないとすぐに暴走するから目が離せないんだ」
「あ? ……ああ、心得ておくよ」
実は秘書の伊藤直樹という男は、尽の幼馴染みだ。
尽とともにこの会社へ入社した所謂同期の桜だが、尽の専属秘書となって四六時中行動をともにするようになってからも、勤務時間中は決して馴れ合おうとはしてこない。
だが、ひとたび業務を終えれば今みたいに歯に衣着せぬ物言いをする友の顔に戻ってくれるところが、尽は結構気に入っていたりする。
「――本当だな? 約束しろよ?」
尽が見上げているのが、総務課のある七階フロアというのが気になっているんだろう。
直樹が険しい顔をして電気の付いたフロアをちらりと見上げたのを見て、尽は内心『鋭いな』と苦笑せずにはいられなくて。
だが同時に、あの晩玉木天莉を含む社員三人の姿を高級ホテル前で車窓越しに見かけた際、直樹も自分とともに車内にいたのだから当然と言えば当然か……とも思う。
長い付き合いだ。尽が天莉に興味を持ったことを、直樹はきっと気付いている。
居残っているのが玉木天莉とは限らないが、もしそうだとしても妙な気は起こすなよ?と釘を刺されているのだと理解した尽だ。
直樹は、尽が抱えている個人的な問題も知っているから。
だから余計に心配をしてくれるんだろう。
「俺も一応立場がある身だ。お前が懸念しているようなスキャンダラスな事態にはならないよう善処するし、動くときには公的なフォローも出来るよう保険をかけて行動する。だから、な? ――頼むからそんな怖い顔で睨むなよ」
尽が真剣な顔でそう告げたら、直樹が心底呆れたように吐息を落とした。
「なぁ尽よ。それ、もし上にいるのがあの時の女性だったら『俺は行動を起こす気満々だ』と言われてるようにしか聞こえないんだが?」
視線こそ先程よりは緩んで見えるが、困った男め、という心情がありありとにじみ出た直樹のその表情に、尽は小さく肩をすくめて見せる。
(ホント、こいつには隠し事が出来ないな)
上にいるのがもしも玉木天莉なら……自分はきっと、彼女を己れの事情に巻き込むための算段を練らずにはいられないだろう。
(弱ってるところを狙う方が効率的だしな)
打算的でいやらしい考え方だとは思うけれど、失恋直後の人間が篭絡しやすいのは紛れもない事実だ。
いずれ近いうち。何らかの形で彼女にはコンタクトを取るつもりではいたけれど、もし今夜期せずしてその機会に恵まれたなら、躊躇うつもりはない。
嫌味に思われるかもしれないが、客観的に見ても自分は男としてはかなりの優良物件だと思うし、容姿だって恵まれている部類に入る。
話術だって人よりは長けているつもりだ。
己れの懐に取り込んでしまいさえすれば、何とか出来る自信がある。
「動きがあったら真っ先にお前に連絡する。俺は直樹が思ってる以上にお前のこと、買ってるからな」
「――それは公私どちらの意味で?」
「もちろん、両方だよ」
ククッと笑って心配性な幼馴染みに「お疲れ」と手を振りながら背を向けると、尽は裏口詰め所にいた警備員へ声をかけてエレベーターに乗り込んだ。
誰が残っているにせよ、常務の務めとしてこんなに遅くまで社員が残らねばならない理由ぐらいは把握しておきたい。
こういう細々とした日々の積み重ねが、会社全体に綻びを生むことだってあるからだ。
いつもは自室のある八階まで一気に上がることが多い尽だ。
エレベーターに乗り込むなりつい癖で操作パネルの【8】を押してから、『あ』と思って【7】も押した。
直樹が一緒ならこんなミスはしない気がして『頼り切りはいかんな』と苦笑する。
ついでに彼が一緒なら間違えて押した行先ボタンの取り消しもしてくれただろうが、面倒なのでそのままにした。
予定では七階で降りて電気の付いていたフロア――恐らく総務課――へ顔を出すはずだったのだが、目的の階に着いてドアが開いたと同時。
目の前に幽鬼のような様相で、ふらりふらりぐらつきながらひとりの女性が立っていた。
(残業していたのはやはり彼女だったか)
パッと見て、先日ホテル前で見かけた玉木天莉だと分かったのだが。
想像以上に参っている様子の彼女に、尽は声を掛け損ねてしまった。
いつもの自分ならそれぐらいの不測の事態、何ということもなく乗り越えられるのに。
(……調子が狂うな)
明らかに体調が悪そうに見えたから、てっきり帰宅するつもりでエレベーターを待っていたんだろうと思ったのに、天莉は何故か最上階行きになったままのこの箱へ乗り込んできた。
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