テラーノベル
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理玖との外出から数日後の水曜日。
家庭教師のアルバイトに向かう準備中の部屋で、私は鏡を前に迷っていた。
何を着て行こうかと悩み、何着か体に当ててみて、最終的にワンピースを選んだ。それを身に着けてからはっとする。
この前理玖から似合うと言われたから、ワンピースにしたわけじゃない。買ったきり、まだ一度も袖を通していなかったから――。
そんな言い訳をしながら家を出た。
理玖や友恵の希望もあって、夏休み期間中は開始時間を繰り上げることにしていたから、いつもより一時間早く土屋家に到着する。初めに出迎えてくれるのは友恵だと分かってはいたが、インターホンを押す指先がほんの少しだけ震えた。
ガチャリとドアを開ける音がして、友恵が顔を出す。
「先生、お待ちしていました。お盆前なのにすみません。今日もよろしくお願いしますね」
「いえそんな……。お邪魔します」
いつも通りに挨拶し、その後はいつも通りに理玖の部屋へと通された。
「理玖、先生、いらしたわよ」
「まど香先生、こんにちは。今日もよろしくお願いします」
「は、はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
理玖は礼儀正しくお辞儀をした。先日二人して会ったばかりなのを感じさせないような澄まし顔だ。
友恵が階下に降りて行った後、私は緊張しながら彼の隣の椅子に腰を下ろした。先日のことにはあえて触れず、理玖の手元を覗き込む。
「今日は何からやる?あ、もう始めてたんだね」
「うん。……ところで、まど香さん」
理玖の口調が突然変わった。
ここにいるのは私たちだけとは言え、万が一友恵にでも聞かれたらまずい。私は慌てた。
「その呼び方、ここではやめましょう」
「今は俺たちだけなんだから、大丈夫だよ。それよりもさ」
理玖は体ごと私に向けて微笑んだ。
「今日はワンピースなんだね。やっぱりそういう服、まど香さんに似合ってて可愛いよ」
「ちょ、ちょうどいい服が、今日はこれしかなかっただけだから……」
照れ臭くて、言い訳がましくなってしまう。彼にとってはなんということのない言葉なのかもしれないが、私にとっては言われ慣れていない言葉なのだ。この前二人で外出した時も、理玖はさらりとこんなことを口にしていたなと思い出し、そわそわする。
彼は机の上に頬杖をつき、にこにこしながら私を見た。
「この前は楽しかったね」
私の頭の中を読んだかのようなタイミングだった。
「早くまた二人でどこかに行きたいって、あの日からそればかり考えてるんだ」
私はどぎまぎして彼から目を逸らす。
「そ、そうなんだ」
「うん。この前はあのカフェにもう一度付き合ってなんて言ったけど、やっぱり次は違う所がいいな」
楽しそうな彼に水を差したくはなかったが、それはご褒美だということをあえて強調する。
「じょ、条件をクリアしたらね」
「もちろん、分かってるよ。ちなみにこの前くらいの条件だと嬉しいな」
「どうしようかな」
「あんまりレベル高くしないでね」
前回よりも条件を難しくしようかと思っていた私はどきりとした。
「か、考えておくわ」
「ぜひよろしく」
理玖はくすっと笑い、改めて机に向き直る。
「さて、そろそろ続きやろうかな。夏休みの宿題があと半分くらい残ってるんだよ。というか正しくは、分からない所ばっかり残ったっていう感じなんだけど」
「じゃあ、その分からない所を潰していきましょうか」
理玖の視線が外れたことにほっとしながら、私はバッグの中からペンケースとメモ帳を取り出した。
今日の理玖は五分程度の休憩を挟んだだけで、いつにも増して最後まで集中して課題に取り組んだ。シャーペンを置き、ふうっとため息をつく。
「ちょうど区切りもいいし、今日はここまでにしようっと」
「お疲れ様でした。夏休み中はあと二回くらい来ることになるかしら。次回も夏休みの宿題が中心になるかな?それじゃあ、私は帰ります」
「もう?」
物足りない顔をする理玖に、私は当然という顔で答える。
「だって、終わりだから」
「それじゃあ、駅まで送るよ」
その言葉を実は嬉しいと思ってしまったことを隠しながら、私は荷物をまとめだす。
「いつものように玄関先で十分です」
「俺も行くよ。コンビニで買いたい物があるんだ。ちょうど駅の方だからさ」
「……そうなの?」
「うん」
「そういうことなら……」
本命はコンビニだったのかと、少しだけ面白くない気分になった。その気持ちを悟られないように慌てて顔を伏せる。
理玖の不思議そうな声が聞こえた。
「まど香さん、どうかした?」
「な、なんでもないわ」
「そう?じゃ、行こうか」
「え、えぇ」
理玖に促されて部屋を出る。彼の後に続いて階段を降りながら、何気なく彼の後ろ姿を見下ろした。彼の背中が思っていたよりも広いことに改めて気づき、急にどきどきし始める。
落ち着け心臓――。
私は胸元に手を当てて、静かにゆっくりと深呼吸をした。
階段を降り切ったところで、友恵がリビングの方から出てきた。私たちの足音に気がついたらしい。
「先生、ありがとうございました」
「今日も理玖君、最後まで集中して頑張りました」
私の報告に友恵はにこにこと頷き、ふと思い出したように言う。
「そう言えば、先生、就職活動中なのよね。今さらですけど、こんな風に来てもらっていて大丈夫なのかしら」
「はい。毎日どこかに行っているわけじゃありませんし、問題ないです。それに実はもう何社か面接も受け終わっていて、今月を最後にいったん落ち着く予定なんです」
「そうなの?それなら、まだしばらくの間は家庭教師をお願いしてもいいのかしら?」
「はい、私の方は全然問題ありません。もちろん理玖君の希望があれば、ですが」
私と友恵の会話を黙って聞いていた理玖が口を挟む。
「希望に決まってるでしょ。本当なら卒業まで勉強を見てほしいくらいなんだから」
理玖を見上げながら、友恵は感慨深げしみじみと言う。
「ほんとよねぇ。あれだけ悪かった成績をここまで上げてもらったんだもの。まど香先生には感謝しかないわ。ところで理玖、出かけるの?」
「うん。コンビニに行ってくる」
「それならついでに、炭酸水を二、三本買って来てくれない?料理に使いたいのよ」
「いいけど……。今度は何に挑戦するつもり?」
苦笑する理玖に、友恵は片目をつぶってみせた。
「内緒よ。もし上手に作れたら、まど香先生にも今度ご馳走しますね」
「楽しみにしています」
「じゃ、行ってくるね」
「いってらっしゃい」
友恵の笑顔に見送られて私たちは玄関を出た。
理玖と並んで歩くのは初めてではないのに緊張した。まるで彼を意識しているみたいではないかと、自分を落ち着かせようとすればするほど、胸がどきどきした。こんな自分に気づかれたくはない。早く理玖と別れなければと、駅に向かう私の足は自然と速くなる。
しかし足の長い理玖にとって、私の早足など全く問題ではないようだ。変わらず隣に並んで歩いている。
「まど香さん、急に足、速くなったけど、もしかして電車の時間、やばい?」
「そういうわけじゃないんだけど……」
答えてからはっとする。どうせならそう言うことにしてしまえば良かったのだ。
「あ、あの、うん、やっぱり少し急いだほうがいいと思って……」
取ってつけたように言った時だった。
駅までの途中に公園があるのだが、その出入り口から出てきた小柄な人物と、すれ違いざまにぶつかりそうになった。とっさに体を引いて逃げたが、反動で足元がぐらつく。すぐ隣にいた理玖が私の体を支えてくれたおかげで、転倒せずにすんだ。
耳に近いところで、理玖のほっとした声が聞こえた。
「びっくりした」
「ご、ごめん。ありがとう」
理玖の吐息がかすめ、そのせいで耳が熱くなる。
どきどきしながら彼から離れた時、女の子の声が飛んできた。
「ごめんなさいっ。大丈夫でしたか?!」
「あ、えぇ、大丈夫ですので」
彼女に軽く頭を下げて、理玖を促し歩き出す。何歩か進んだところで、女の子の声が追いかけてきた。
「待って!」
「え?」
呼ばれたのは私かと思い、足を止めて声の方に首を回した。しかし彼女が見ていたのは私ではなかった。
「もしかして、理玖君?」
彼女の目は理玖を真っすぐに見つめていた。
その視線に熱を感じて、ざわりと心が揺れる。
彼女は理玖と同じくらいの年頃に見えた。もしかすると学校の友達なのかもしれない。しかし、彼女の顔にはただの友達には思えない感情がちらついている。
一方の理玖はというと、軽く眉根を寄せ、無言で女の子を見ていた。
理玖の表情に気づかないのか、それとも気にならないのか、女の子はにこにこしながら私たちの前に立った。
「やっぱり理玖君だ!私、中学の時に同級生だった、高見りらよ。覚えてるよね?同じ学校なのに、学科が違うからほとんど会わないよね。でも、理玖君は気づいていなかったみたいだけど、私は理玖君のこと、よく見かけていたよ」
満面の笑顔から、理玖に会えたことを心から喜んでいるのが伝わって来る。
この子は理玖君のことが好きなのね――。
胸の奥に針で刺したような小さな痛みを感じた。軽く唇を噛んでその痛みをごまかす。
理玖はというと、これほど分かりやすく恋心を向けられているというのに、恐ろしいほど淡々としていた。
「わざわざフルネームで言わなくても覚えてる」
あまりにもぶっきらぼうな口調に、隣で聞いている私の方がはらはらしてしまった。
女の子はむっとした顔で理玖を見ていた。しかしよくよく見れば、その目には可笑しそうな色が滲み、口元は緩んでいる。
「高校生になっても全然変わっていないね。女子に対しては相変わらずの塩対応?」
理玖は能面のように無表情のままだ。
「もう行くから」
「せっかく久々に会ったんだから、少し話そうよ」
「俺の方には話すことはないから」
理玖の冷たい態度にめげた様子はなく、彼女はただ不満そうに頬を膨らませている。
「今まで送ったメッセージ、全然見てくれてないね」
「自分に無関係の相手からのは全部スルーしてるから」
理玖の態度は取りつく島がなく、さすがに彼女の表情も固まっている。
私は二人の様子を静かに見守っていたが、居心地が悪くなってきた。二人の関係は気になるが、私はここにいない方がいいだろう。じりじりと後ずさりをして、その場から離れようとした。
ところが理玖の手に捕まる。逃がすまいとするかのように彼の手が肩に乗り、ぐいっと抱き寄せられてしまった。
私は彼の手を引き剥がそうとした。
「離して」
「だめ」
理玖は私の要求を即座に却下し、離すどころか肩を抱く手にさらに力を込めた。
「ここにいて」
彼女の視線が刺さるのを感じながら、私は理玖から離れようと抵抗する。
「だって、私は部外者でしょ。彼女が話をしたいって言ってるんだから、聞いてあげたら」
感情を押し殺した声で、彼女は理玖に訊ねる。
「ねぇ、さっきから気になってたんだけど、そのお姉さん、誰?まさか、理玖君の彼女さん、なわけないよね。だって、明らかにうちらより年上だもんね?」
私は彼女の誤解を解こうとした。しかしそれよりも早く、理玖が不快そうに口を開く。
「年上の人を好きになっちゃいけない理由はないだろ」
私は困惑して理玖を見上げた。今のはただの売り言葉に買い言葉の一般的なことを言っているだけなのであって、別に私のことを指して暗に好きだと言っているわけではないのだ。そうと分かってはいても、どきどきしてしまう。
しかしそれは、りらに誤解を与えるには十分すぎるほど衝撃的なセリフだったらしい。彼女の顔は引きつっていた。
「まさか好きなの?その人のこと。なんで……?」
震える声で言ったきり、彼女はくるりと身をひるがえす。
「待って!」
引き留める私の声は届かない。彼女の背中は見る見るうちに小さくなっていった。
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