一日目 偶然か、必然か。
見えないちいさな小人が、横転したゴミ箱の上で軽快にステップを踏んでいる。
不愉快な鈍痛が体中にじわしわと染み渡り、どろりとした鉄臭いかたまりが喉の奥へと垂れ流れた。薄黒くにごった空から降り落ちる雨粒に体温を奪れ、体は死人のようにすっかり冷え切っていた。
──…………。
喉は血で湿っているはずなのに、唇の隙間からは語らない空気ばかりが抜けていく。指先ひとつすら動かす気になれず、まるで他人の物のように思えた。視線をわずかにずらして、正面の白ばんだ狭間を見た。無数の頭でっかちな黒い影が輪郭をぼやかして、また時折重なり合いながら、左へ、右へと過ぎ去っていく。忙しなく、慌ただしく、なにか恐ろしいものから逃げるように。 こうしていると、自分だけ切り離されたような、まったく別の世界にいるようだ。どうしようもなく光が眩しくて、思わず目を細めた。辺りは薄暗くなり視界の端に闇が訪れる──そうだ。輝いては見えるけれど、実は暗く淀んでいる。俺の住む世界、俺の嫌いな世界──。
そのまま、 まぶたの力を抜いた。 小人は相変わらずステップを踏んで、俺を嘲るように小気味いい音を奏でている。肌の感覚はとっくに麻痺していて、ぬるいシャワーを浴びているようだった。小さな衝撃が体の露出部分すべてから絶えることなく感じられる。──このまま自身も水となって、この果てのない思考も、シミのような感情も、いっさいがっさい跡形もなく消えてしまえたら……。雨音に意識をよせ、つまらない空想を脳内で流しては巻き戻した。けれど、頭の中でいくら消しても、俺は変わらずこの世界で息をしている。 なんだか無性にやるせなくなって、このまま眠ってやろうと思った。風邪を引いたら明日の自分が困るのに、そんなことはどうでもよかった──どうせ明日も生きているだろうに。とにかく、今はただ、これ以上この惨めな気持ちに浸っていたくなかった。呼吸に集中していれば、どんどん意識は夢の中へと沈んでいく──。
しかし、思っているよりもずっと早くに現実へと引き戻された。少しばかり静まった雨音に紛れ、もはや聴き飽きたステップの音が近づいてきていた。それは、俺の頭上でぴたりと止まる。このまま空寝していてもよかったが、俺は重いまぶたを持ちあげることにした。こんな路地に入ってくる、それも俺に用があるらしい人間がどんなやつなのか見てやろうと思った。理由なんかそれだけだった。
「大丈夫、ですか」
目の前で、見知らぬ男が傘を差しだしていた。彼はその場にしゃがみ込み、いかにも心配そうな表情でこちらをのぞいている。けれど、俺には上手く発音できる気も、気力も無かった。焦点の定まらない双眸で、おぼろなシルエットをひたすらに見つめ続けた。
「血が……」
彼はジャケットからハンカチを引っぱり出し、俺の額に優しく押し当てる。
「あの……よかったらウチ、来ませんか」
──ああ。吐き気がする。
己の善意をもっと疑うべきだ。ゴミはゴミ箱へ……世間様からそう教わったはずだろう。ゴミ袋の山に身を沈めるクズで最低な人間を、いったいどうしたいと言うのだ。見限られた負け犬どもは、崖っぷちに情けなくしがみつくだけ。それしかできない人間になんの価値もありゃしない。……それに、負け犬だからってプライドを捨てきれるわけじゃない。だから、それは自分のことしか考えていない、ひどく薄っぺらい善意だよ。軽蔑に近い感情を抱く一方で、とんだ物好きがいたものだと愉快な気持ちが込み上げる。
「……な……んで……」
どんなことを言われるかなんて分かりきっていたが、相手の口から直接理由を聞きたかった。かろうじて捻り出した声は、自分でも聞き取れないほどひどく掠れていた。彼は聞いてか聞かずしてか、言葉を詰まらせることなく堂々と答えてみせた。
「空が泣いているのか、あなたが泣いているのか、分からない顔をしていたから」
その時、はじめて彼の顔をしっかりと目に映した。それは、悪意など微塵も感じさせない、残酷な純粋さと輝きをおびた、どこか懐かしい笑顔だった。
「……ん、もう必要ないですね」
独り言なのか微妙なボリュームで短くこぼすと、そのまま立ち上がり、あの迷惑な顔は俺の視界からはみ出して消えた 。視線の先を失い、丁寧な所作で閉じられる傘をぼんやりと眺めていた。すでにゴミ箱の上の小人は消えており、あんなにも降り注いでいた雫も、今は指先から落ち行くばかりだった。
「さあ、いきましょうか」
……なんてタチの悪い夢なのだろう。状況をこれっぽっちも飲み込めていないクセに、胸の高鳴りが止まらない。あの笑顔を見たせいだ、あの笑顔を──“彼”を、思い出したせいだ。
自分の人生がこの先どうなっていくかはおおよそ見当がついている。しかし、今からたかが一分後でさえ俺にはまったく想像がつかなかい。これ以上の地獄なんか無い。だから、この選択がどう転ぼうが俺には関係ない。……暇つぶしとして。そう、単なる暇つぶしとして、俺は彼に期待しているのだ。
差し伸べられた掌に、感覚の鈍い震えた手を重ねた。快い温かさが伝わり、俺は頭を倒してその姿を見上げた。──彼の背には、澄んだ青空が広がっていた。
コメント
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ハッシュタグにもある通り、桜部門を目指して書いておりますが、もしかしたら変わるかも?です💭
ダッシュの間に空間ができちゃった😬 コンテスト用の作品でございまして、ちびちび投稿するかと思います☺️ 『この文章ちょっと違和感あるな』など批評のコメントをいただけると大変参考になります!!✨ 何度も読み返しているので誤字脱字はないと思いたいのですが……見つけ次第、ご報告いただけると助かります🙇💦