(これじゃ、そう思われても文句言えないじゃないっ)
直樹がそばにいてくれたなら、こんなことにはならなかったはず。
課長に、こんな風に尽と二人きりでここへ残っているわけではないと思われていることだけがせめてもの救いに思えた天莉だ。
天莉は何を言っても手を放してくれそうにない尽に、半ば諦めモード。
(伊藤さんが戻ってきたら叱られちゃえ!)
そんなことを心の中で念じながら、ほぅっとひとつ小さく溜め息を落としたら、「おや、観念したのかね?」と尽がクスクス笑う。
「高嶺常務が思いのほかお子様なので、私が大人になろうと気持ちを切り替えただけです」
スッと声のトーンを変えて姿勢を正したら、「ほぅ。キミも大概言うようになったね」と、言葉とは裏腹。尽が、とても嬉しそうに破顔した。
その笑顔に、ドキンッ!と大きく心臓が跳ねてしまった天莉だ。
(お、大型犬っ!)
不意に気を許したように天莉へ向けられる尽の笑顔は、日頃のどこか取り付く島もない上役然としたイメージとのギャップで、パンチ力が半端ない。
天莉はふとした時に向けられる、尽のこういう表情が嫌いじゃないから困ってしまうのだ。
「あ、あのっ。私をここへ残した理由って……」
何もこんな風にイチャイチャしたいから、というのが理由じゃないと思いたい。
照れ隠し。
気持ちを切り替えるように突然話題を変えた天莉に、
「ああ、それはじきに直樹が――」
尽が眼鏡の奥の双眸を含みありげに細めてそう言ったのと同時、執務室の扉がノックされた。
尽がフッと笑って「噂をすれば、だね?」とつぶやいたのに「伊藤です、戻りました」と言う声が重なって。
尽の「入れ」という許可を受けた直樹が、「失礼します」という声とともに優美な一礼をして入室してきた。
(何か初めての日とは大違いだわ……)
初見の伊藤直樹は、ここのドアをノックもなしにいきなり開けて、ズカズカと室内へ入ってきたのだ。
同一人物の所作とは思えないギャップに、天莉は尽から手を取り戻そうとそっと引いてみながら、そんなことを思う。
だが、存外ギュッと握られた手はちょっとやそっと引いたくらいでは取り戻せそうにない。
(きっと伊藤さん、オン・オフで高嶺常務への対応を切り替えていらっしゃるのね)
如何にも器用そうな直樹がしそうなことだ。
そう言えば高嶺尽も、伊藤直樹も、公私で己れの呼称を変えている。
普段は〝俺〟と称する尽は、公の場だと〝私〟。
直樹は〝僕〟から〝わたくし〟にシフトする。
そんなことをしてこんがらがったりしないのが凄いなと思ってしまった天莉だ。
困った後輩の、『紗英ぇ~』がわざとらしく『私ぃ~』になるお粗末さとは雲泥の差。
そんなことを思っていたら、「わたくしが少し席を外している間に、常務は一体何をしていらっしゃるんですか?」と、直樹の冷ややかな声がして。
ハッと我に返った天莉は、直樹の視線が静かに、だが絶対零度の冷酷さを宿して、尽が放してくれないままの手に注がれていることに気が付いた。
常務と名指しされていたし、別に天莉が責められたわけではないと分かるのに、まるで尽と共犯者になったような気持ちがして懸命に手を引いてみた天莉だ。
けれど、やっぱりびくともしなくて。
そもそも対・風見課長用への茶番も終わったと言うのに、応接セットから移動していないというのも何気に後ろめたいではないか。
「なぁに、直樹。お前、もしかして、俺が天莉の手を握ったままなのが気に入らないの?」
まるで直樹に見せつけるみたいに繋いだままの手をスッと掲げて見せながら、前に天莉が寝かせてもらったことのあるフカフカのソファへ視線を注いで――。
「肘掛けなんて無粋なもので一脚一脚が仕切られていない、あちら側へ移動してないだけマシだと思わないかね?」
悪びれた様子もなく尽がククッと喉を鳴らすのを聞いて、天莉はサァーッと血の気が引くのを感じた。
明らかに、尽は直樹を揶揄って楽しんでいる。
(常務は慣れていらっしゃるのかも知れませんが、私は免疫がないのですっ。お願いだから伊藤さんの言葉を素直に聞いて下さい!)
そう思ってしまう程度には、直樹の静かな怒りはヒヤリとしたナイフを喉元へ静かに突き付けられているような錯覚を天莉に与えるから。
さっき、『伊藤さんに叱られちゃえ!』と思ったのを半ば後悔している天莉だ。
こんな風に尽から手を握られたままでは、自分も叱られているような気分になって、天莉は怖くてたまらない。
「――思いませんね」
直樹は小さく吐息を落とすと、「常務、失礼をお赦しください」と告げるなり、「赦して欲しい」という言葉とは裏腹。何の躊躇いもなく尽の手の甲をギューッ!と思い切りつねり上げた。
途端痛みに耐えかねたように尽の手が天莉の手を解放してくれて。
天莉は慌てて自由になった手を再度捕らえられたりしないよう引っ込めた。
「さぁ、玉木さんはこちらへ」
間髪入れずに差し出された直樹の手を恐る恐る取ると、グイッと引き上げるように立たせてくれて。
そのまま尽の真向いの席へ流れるように移動させられてしまう。
(わー、伊藤さん、手際いいっ)
天莉はそんな直樹の手腕を、まるで他人事のように感心してしまった。
そんな天莉とは対照的に、尽の方はちょっぴり不機嫌。
まぁ自業自得とはいえ、痛い目に遭わされたのだから仕方ないのだが。
***
「――で、あの男、一人にしてみたらどうだった?」
〝あの男〟というのは風見課長のことだろう。
机上に広げられたままになっていた小豆色の婚姻届をおざなりに畳んで端へ滑らせると、尽がすぐそばに立つ直樹へ視線を投げかけた。
「高嶺常務の目論見通り、六階へ向かいました」
「あの男、プライドだけは高いみたいだからな。あんだけコケにしてやったんだ。すんなりと引き下がってもらっては面白くない」
天莉と尽を向かい合わせに座らせて、自分もどちらかへ着座するのかと思いきや、そこら辺はやはり秘書としての立場をわきまえているのだろう。
直立の姿勢のまま直樹が今見てきたばかりのことを尽に報告した。
そんな直樹に、尽がしたり顔で返すのを見遣りながら、天莉は懸命に思いを巡らせる。
どうやら今の二人のやり取りから鑑みるに、自分が課長と一緒に退室させられなかったのは、風見斗利彦を単独行動にさせて泳がせたいという意図があったようだ。
(単に手を握り続けていたかったから、とか馬鹿みたいな理由じゃなくて良かった)
そんなことはないと分かっていても、尽からの先程までの執着ぶりを思い出すと、ついそんなことを思わずにはいられない。
口を挟んでいいものか戸惑ったけれど、同席させてくれているということは、天莉にも発言権が与えられていると考えても良いだろう。
そう判断した天莉が、「六階って……」とつぶやいたら、
「営業課のフロアだね」
尽が、即座に天莉の言葉を拾って繋いでくれた。
元彼の博視の配属先だから、天莉もそこが営業課なのはよく知っている。
でも――。
同じ社内なのだから、天莉のいる総務課が営業課と全く関わりがないということは、もちろんない。
けれど用事があって行き来するのは、基本的にヒラである自分たちの役目。
課長クラスの人間がわざわざ出向いていってどうこうということは、そんなにはないはずだ。
「課長は……何故そんなところへ向かわれたのでしょう?」
一度総務課へ戻ってみたら、何かの案件がきていて、とかいうのならまだ分かる。
だが、尽の執務室を退室した直後に、というのは明らかに不自然に思えた。
不思議に思ってそうこぼした天莉は、
「さてね。――天莉はこれをどう見る?」
逆に尽から問いかけられて、眼鏡の奥から切れ長の目で、じっと探るように見つめられてしまう。
天莉はその視線に何だかゾクリとして。
今の尽の目つきは、まるで獲物を狙う猛禽類のようだ。
こんな表情をしている時の尽は、正直ちょっぴり近付き難い。
天莉は尽の目線から逃れたいみたいに少し視線を落とすと、しばし逡巡してから、「……江根見部長がいらっしゃるからでしょうか」と、何となく思ったままを口にしてみた。
天莉の勝手な想像だけど、風見課長の紗英贔屓には、彼女の父親の存在がある気がしてならなかったから。
もしかしたら紗英の父親である江根見則夫と、総務課長の風見斗利彦の間には、天莉の知らない密接な関わりがあるのかも知れない。
それこそ表向きの業務とは関係のないところで……。
そんなことをふと考えて恐る恐る尽を見つめたら、尽がニヤリとして「御名答」と褒めてくれた。
(高嶺常務は……私の知らない課長と江根見部長の秘密を知ってる……?)
もしかしたらその辺りこそが、尽が天莉との偽装結婚を急いだことに関与しているのかも知れない。
何の根拠もないけれど、天莉は何となくそう思った。
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