Non-Real
Side Pink
チューナーのクリップをネックに挟み、弦を一本ずつ弾いていく。
それが6弦までたどり着くと、譜面台にコード譜を置いた。
俺は顔を上げる。今の時点で立ち止まってくれている人は……いない。
それでもいい。俺が歌う理由は、多くの人に聴いてもらうことよりも、自分の音を鳴らしたいから。
自分の歌を、この街に響かせたいから。それだけで、いい。
そして誰かの耳に届けばなおさら幸せだ。
さぁ、今日は何の曲をしようか。楽譜を入れているファイルのページを繰る手が、ふと止まる。
そうだ、これだ。
今日という日には、この曲を歌おう。たとえ届く範囲は狭くとも。
最初のコードはC。アルペジオが、冷たい風の吹き抜ける陸橋の上にいくらかの温かさを与えてくれる。
俺はこのギターの音が好きだ。決して高くはない中古だけど、とてもいい音の鳴りを持っている。
息を吸って、声で音符をなぞっていく。
「僕は祈るよ あなたのために
そっと静かに この時を共にして
愛の行方は誰も知らないけれど
きっとまだここにあるんだ
さぁうちへ帰ろう
また明日 会えるから」
仕事帰りで、急ぎ足で家へと向かう人たち。一方仕事へと向かう人もいるんだろう。
みんなが同じような灰色みたいな顔をして、駅に繋がる橋を歩いて過ぎ去っていく。
そばにひとりの男性が立っていたのに気づいたのは、一曲を歌い終わってからだった。
「どうも」
会釈すると、彼も返してくれる。
一度合った視線を逸らすにも逸らせなくて、俺は見つめてしまう。
その人はどちらかというと、今もひっきりなしに橋を渡っていく人々とは違っていた。スーツでもないし、どこかに行く途中という感じでもない。
その顔は、色でいうなら「白色」だった。
「……今の曲、オリジナルなんですか?」
「ああ…そうです。僕の曲です」
その会話を皮切りにして、彼が一歩二歩と近づいた。興味を持ってくれる人は珍しい。
「…シンガーソングライターとかされてるんですか」
「いや、そういうわけじゃなくて。ただの趣味です」
そう言うと、彼は黙り込んでしまった。うつむいたとき、綺麗に整えられた黒髪が目元を隠す。
「14年前の今日から、永遠に会えなくなってしまった友人がいるんです」
突然の言葉だった。予想もしていなかった――いや、でも今日はそう、日本が祈りに包まれる日なのだから彼もきっと何かしらの「祈り」を心に秘めているんだろう。
だから、この歌を聴いてくれたんじゃないか。
「前はその友人も東京に住んでて、そこで知り合って。そのあと東北に引っ越したんです。別れるとき、それが本当の別れになること、知らなくて」
俺は何も言わずにうなずく。
「あっ……すいません、勝手に話しちゃって。歌詞が印象深かったので…」
「いえ。聞かせてくれて、ありがとうございます」
照れたように笑った。とても素敵な笑みで。
「お名前は? 僕は北斗です。北斗七星のほくと」
「俺は大我。大きいに我で、たいがって言います」
「大我さん。ここではいつ歌ってるんですか?」
「いや…特に決めてなくて。バイトがない日に適当に来てるので」
「それじゃあ、明日も来てくれますか」
「え?」
「聴きたいんです」
どうやら、北斗さんは俺のファン第一号になりかけているようだ。
「わかりました。たぶん、来れると思います」
「じゃ、同じ時間に同じ場所で。歌、すごくよかったです」
「あ、ありがとうございます…」
俺は呆気に取られてその背中を見送る。
どこに行くのか、どこから来たのか教えてほしい。
あなたは誰なのか、名前しか知らないまま、暗夜へと消えてしまって。
まるで幻のような人だった。
でも嬉しい。すごく嬉しい。
アコギをケースにしまい、右手に提げて電車に乗る。
始めて、自分の歌がダイレクトに人に届いた。
その人の心を、数ミリでも動かした。
車窓から見える、少し雲がかかった月。
あの月はきっと14年前も、ずっと前もこの世界を見てきた。それはそれは長い年月を。
俺は顔も知らぬ、北斗さんの友人のことを想った。
北斗さんに愛されていたんだろう。そして今も、大事に思われているんだろう。
願わくば、彼の寂しい心が少しでも安らぎますように。
そんな祈りを、今夜の月に。
コメント
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うあ、今日にリンクしたお話だ…🥺 震災に遭われたすべての方に、幸せが訪れますように🙏🏻