*****
「申請しないならアパートに帰らせていただきます」
有給休暇の申請を嫌がる雄大さんに、言った。
「私は『ヒモ』みたいな男、イヤ」
雄大さんは私が持って来た申請書に記入した。そして、右手を伸ばした。掌を上にして。
「アパートの鍵、よこせ」
「なんで?」
「解約してくる」
『ヒモ』って言ったこと、怒ってるな……。
目を逸らす。
「……やだ」
更に怒らせるとわかっていたけれど、私は言った。
「なんで」
「だって……」
「たとえ会社を辞めても、お前に養ってもらうことだけはない。安心して解約しろ」と、いかにもわざとらしい笑顔。
私も子供っぽく口を尖らせてみた。
「いーやーだ!」
「馨!」
急に真顔で強めに言うから、驚いた。
「もう、お前をアパートに帰す気はないんだよ」
わかっている。
ここで暮らすようになって、時々荷物を取りに行く以外、アパートへは行っていない。
家出した時も、アパートに帰ろうとは思わなかった。
私こそ、あのアパートへは帰れない。
雄大さんとの暮らしから離れられる気がしない。
雄大さんも同じ気持ちでいてくれると思うと、嬉しかった。
私は雄大さんの手をかすめて、彼の胸に顔を埋めた。
「自分で……解約してくる」
私の身体は雄大さんの両腕にすっぽりと抱えられた。
「週末、二人で行くか」
「いいよ、そんなに荷物も——」
「『ヒモ』はいつもくっついていないとな」
根にもってる……。
しばらく言われそうだな、と思った。
「で?」と、私の髪を指に巻きつけながら、雄大さんが言った。
「他にはどんな話をした?」
「え?」
「俺に有休の申請をさせろって話だけなら、わざわざ副社長自らお前と話すことはないだろ」
低い声が、鼓膜に響く。
最近、気がついた。
私は雄大さんの声に、感じる。
「私は……あの写真のことをどう思うかって」
「何て答えた?」
「雄大さんを信じてる、って」
「それで副社長と専務が納得したか?」
「盗撮した写真を社内メールで送るなんて悪意しか感じない、って言ったら、納得してくれた」
「……」
雄大さんが納得していないのがわかる。
それでも、これ以上は言えない。
私が副社長に黛のことを話したと知ったら、きっと会社に行かせてもらえなくなる。
雄大さんが心配してくれるのはわかっている。
雄大さんは私がしようとしていることを、決して許さないだろう。
大人しく雄大さんに守られていれば、可愛い女のかもしれない。雄大さんもきっとそれを望んでいる。
『恋人』ならそれでいいだろう。
けれど、私たちは『共犯者』。
だから……。
だから、私だって雄大さんを守りたい。
「明日の朝はジャムが食べたい」
今朝は和食だった。
納得はしていないけれど、私がこれ以上を話すつもりがないことも分かったのだと思う。
「了解」
雄大さんはため息交じりに言った。
*****
土曜日。
雄大さんには仕事だと言って出て来た。
本当に仕事かと疑っているようで、手伝うから家でやればいいと言われた。
遅くなるようだったら持ち帰る、と言ったら、渋々納得してくれた。
停職になってから十日。
雄大さんの主夫っぷりが板についてきた。
料理はどんどん手の込んだものになっていくし、韓流ドラマの歴史ものにハマっている。
日中、子供たちの姿を見かける事が多くなって、早く子供が欲しいとより思うようになったらしい。
平日は控えていたのに、毎晩セックスしたがる。
私は私で、堪能していた。
仕事から帰ると美味しいご飯が出来ていて、お風呂でマッサージまでしてもらえる。
甘やかされて、堕落の一途を辿りつつあった。
約束通り、アパートは解約した。
家具家電はリサイクルショップで処分して、他のものは全て雄大さんのマンションに運んだ。雄大さんは見るからに満足そうで、帰る場所を失くした私は少し不安を感じた。
この十日間、黛からの接触はなかった。雄大さんがいないことをいいことに、別れろと迫られるかと思っていたけれど。
だから、私から呼び出した。
雄大さんには言っていないけれど、春日野さんは切迫流産で入院しているらしい。畑中さんから聞いた。
社長に雄大さんとの関係を問われて、妊娠を認めた上で、雄大さんの子供ではないと言ったらしい。それが社内に広まり、春日野さんへの風当たりが強くなったのだと聞いた。
「槇田は知っているのか? お前が俺と二人でいること」
吐き気がするいやらしい目つきで、黛が言った。
「知っていたら、許すわけないか」
「黛さんには関係ないでしょう」
「で? 話って?」
黛が乱暴に椅子を引き、腰かける。
「槇田の次の就職先でも世話してほしいのか? それとも、俺に乗り換える気になったか?」
「春日野さんに何をしたの」
私の質問などお見通しだったのか、眉一つ動かさなかった。
「別に? 槇田に相手にされなくて寂しがってたから、慰めてやっただけだ」
予想通りの答えだけれど、実際に黛《この男》の顔で、声で聞くと、虫唾が走る。今なら、すぐそばにある椅子を振りかざして、殴れそう。
「あんたの子供じゃないの?」
「さあな。他にもつまんでたらしいから、誰だかわかんねぇんじゃねぇ? それに、俺の子だとしても、どうでもいい。……けど、お前の優しい婚約者殿は放っておけないよな。自分が捨てたせいで、その女の人生が狂ったんだ。自責の念? ってやつに苛まれるだろうな」
「それこそ、どうでもいいことね」
私は黛が嫌いだ。
立波リゾートを手に入れるために、桜《私の妹》を利用している。私を利用しようとも考えている。
『人間のクズ』と呼ぶに相応しい、クズだ。
けれど、私が何より嫌いなのは、話していると自分まで同じレベルに堕ちていく恐怖を感じるから。
黛を前にすると、自分でも気づかなかった醜い自分に気づかされる。
誰かをこんなに憎いと思ったことはない。死んでほしいと思うほど、殺してやりたいと思うほど。
黛のせいで、私は桜の呪縛から逃れられない——。
「どうでもいい? そりゃ、そうだ。あの女はお前の大事な婚約者に手を出したんだ。誰の子供を孕もうが、子供をどうしようが、お前にはどうでもいいことだよな」
私の中のどす黒い、負の感情を助長しようと、黛が挑発してくる。
「むしろ、こうなってお前にはラッキーだよな。あの女と顔を合わせることもなくなったし、停職になって槇田は尻尾を振ってお前の帰りを待ってるんだろう?」
「だから、写真をバラまいたあんたに感謝しろって?」
「……何のことだか?」
「あの男……簡単に口を割ったわよ?」
「……」
黛が会議室に入ってくるまで、不安だった。けれど、今は驚くほど落ち着いている。
女は女優だ、という言葉に納得出来る。
黛を叩きのめすためなら、どんなことでも出来る——。
「ホテルで春日野さんの部屋を張ってた男に『今の女が浮気相手でしょ!』って詰め寄ったら、『黛があんな女に本気になるはずないだろう』って。『俺は金を貰って写真を撮ってるだけだから、詳しい話は黛本人に聞いてくれ』とも言ってたわ」
チッと舌うちが聞こえた。
雄大さんが言っていた。
『青白くて痩せた男が俺たちの写真を撮っていたらしい』と。
そんな男なら、きっと気が弱くて口が軽いと思った。完全に思い込み。
けれど、どうやら当たったらしい。
「写真をバラまいたくらいでたいしたお咎めはないさ」
「……そうね」と言って、私は壁の時計に目を向けた。
十一時四十二分。
あと、三分。
「けど、伯父さまたちはどう思うかしらね」
「は?」
「そんなことをする人間を、後継者に据えるかしら?」
黛を見習って、胸の前で腕を組み、自信あり気に口角を上げた。
「証拠はない」
「証拠……ね」
ようやく、黛に焦りの表情が浮かぶ。
いい気分だ。
トントン、と会議室のドアがノックされた。
黛が立ち上がってドアを見る。
「はい」と、私は返事をした。
ドアが開いて、五十代半ば位の警備員が顔を覗かせた。
「那須川さんにお客様ですが」
「わかりました。ありがとうございます」
私は黛には目をくれず、その横を通り過ぎようとした。同時に、警備員が背を向ける。黛の手が、私の腕を掴み上げた。
「いたっ——」
パタン、と会議室のドアが閉まる。
それを確認して、黛はもう片方の手を私のジャケットのポケットに滑り込ませた。
ヤバッ——!
思った時には、遅かった。
「ナメんなよ」
黛の手には、小型のレコーダー。赤いランプが点灯している。録音中、のサイン。黛がスイッチを押すと、ランプは消えた。
「これを持って副社長に直談判に行くつもりだったんだろうが、そうはさせねーよ」
形勢逆転。
黛の自白はあっけなく奪われてしまった。
再びドアが開く。警備員がもう一度覗き込む。
「那須川さん?」
黛が私の手を離した。私はすぐさま黛のそばを離れた。
「すぐに行きます!」
先に会議室を出て行ったのは黛。してやったりと言わんばかりに、私を見てニヤリと笑って行った。
「大丈夫ですか?」と、警備員が聞く。
「はい。ありがとうございました」と、私は礼を言う。
「もう、大丈夫です」
「そうですか。では」
警備員は後ろ手にドアを閉めて、持ち場に戻って行った。
黛と会う前に、頼んでおいた。
『打ち合わせの相手に口説かれて困っているから、十一時四十五分になったら会議室に来てほしい』と。
保険に過ぎなかったが、役に立った。
黛は、私の本当の目論見に気づかなかった。
私の勝ち、だ。
月曜日が待ち遠しかった。
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