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#シリアス
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「……」
黒龍組の事務所、その重厚なソファに深く腰掛けた俺は、眼鏡の奥の目を細めた。
目の前に立っているのは、大きなランドセルを背負い、今にも泣き出しそうな顔で俺を見上げる小さな少女だ。
灰色の髪を揺らし、不敵な笑みを湛えていたはずの俺の日常が、この瞬間、音を立てて軋んだ。
「……っ、お母さん、男の人のとこ行くって出て行っちゃって。お母さんに電話したら、ここに行けって言われて…」
震える声で紡がれた言葉は、かつて俺の隣にいた女の身勝手な身振りを物語っていた。
ひまり、と名乗ったその少女は、俺が裏社会で「黒龍院の狂刃」と恐れられていることなど知る由もない。
俺は懐から短刀を取り出す。
刃を抜くためではない。
落ち着かない時に、その冷たい感触を確かめるのが癖になっていただけだ。
だが、その光を浴びた少女は、短刀の輝きよりも
俺のシャツの隙間から覗く虎の刺青に怯え、小さく肩を竦めた。
(……あの女、ガキをワシのところに放り投げよったんか)
短刀を鞘に収め、俺は深く背もたれに体を預けた。
かつての恋人が、新しい男と一緒になるのに邪魔だからと自分の娘をかつての男に押し付ける。
胸の奥にどす黒い不快感が渦巻くが、目の前のガキには関係のない話だ。
「……ほな、他に頼れる奴はおらんのか。親戚やら、友達の親やら」
俺の問いに、ひまりは力なく首を振る。
小さな手でランドセルの肩紐をぎゅっと握りしめたまま、溢れそうな涙を必死に堪えていた。
「いない、です。お母さん……もう、電話も、繋がらなくなっちゃって……ごめんなさい」
弱々しい声が、静かな事務所に響く。
このまま外へ放り出せば、このガキがどうなるかなど目に見えている。
野良犬に噛まれるか、あるいはもっと質の悪い連中に拾われるか。
「……しゃあないわな」
俺は眼鏡のブリッジを指で押し上げ、重い腰を上げた。
ヤクザの事務所にガキを置くなど正気の沙汰ではない。
だが、行き場を失くして俺の前に転がり込んできた以上、見捨てるのは俺の「極道」としての筋が通らん。
「嬢ちゃん、ひまり言うたな…?」
ひまりは、そろりと俺の顔を見上げてきた。
その瞳はまるで曇り空のように澱んでいたが、どこかで縋るものを探しているようにも見えた。
「ひまり……って呼んでいいんか?」
少女は一度大きく瞬きをしてから、小さく頷いた。
「ワシの名前は黒龍院吾郎や。好きな風に呼んだらええ……今日からここが、嬢ちゃんの家や」
ひまりの肩がわずかに跳ねる。
「え?」
警戒心と安堵が入り混じった表情だった。
俺はひまりのランドセルをひょいと持ち上げると、応接セットの端に置いた。
「食うもんも寝るとこもある。取って食ったりもせんから安心せぇ」
ひまりは唇を引き結び、やがてぽつりと呟いた。
「…ぁ、ありが、とう……っ、ござい、ます…」
その声は今にも崩れ落ちそうに揺れていた。
「よしよし。まずは腹ごしらえやな。何か食いたいもんあるか?」
「……おむ、らいす…っ、オムライスが、たべたい…」
「ほう。上等や」
俺はニッと口元を歪め、短刀ではなく携帯電話を取り出した。
「和幸ぃ!急ぎの用や、事務所戻ってデカ盛りオムライス作りにこいや!」
すぐに組の若衆・和幸の返事が聞こえる。
『え、兄貴……まだ昼じゃありませんよ?』
「あ?細かいこと言わんでとっととこんかいボケが!!」
一方的に通話を切ると、ひまりが目を丸くしていた。
こうして、俺とひまりの奇妙な同居生活が幕を開けた。