しばらくして仕立屋の娘に呼ばれ、ベルニージュは出来を確認する。仕立屋が広げて見せたのは鹿革の外套だ。滑らかな茶色の皮革には傷一つなく、濡れているかのような美しい光沢を見せる。それそのものにまだ魔は宿っていないが、どこか魔法を帯びた品物のような風格がある。これから自身を待ち受ける運命に対する覚悟を秘めているかのようだ。
「ありがとう。十分以上だよ」そう言ってベルニージュは賃金を支払い、そう年の離れていない若さだが腕の立つ仕立屋に尋ねる。「ところで墨が欲しいんだけどどこに行けばいいかな?」
「墨? もしかして魔法使いの旅人さんですか?」と仕立屋の娘が尋ね、ベルニージュが頷くのを待って続ける。「他の土地ではそうでもないんですか? いまこの街じゃ墨はどこも売り切れですよ」
「どういうこと?」ベルニージュは怪訝な表情を作り、おそるおそる尋ねる。「まさかとは思うけど顔色の悪い女が全部買い占めたとか?」
「顔色の悪い女?」仕立屋は怪訝を示し、首を振って否定する。「ううん。そんなんじゃないですよ。街の魔法使いたちがこぞって墨を買ってるんです。仕立屋だって墨を使うのにさ。常識ってものがないんだよ、魔法使いは。世間知らずというか。ああ、ごめんなさいね。お客さんがそうだとは言わないけど」
「ああ、そっか。そりゃそうだよね」とベルニージュは呟く。
「どういうことですか?」とレモニカは仕立屋の娘とベルニージュを交互に見て尋ねる。
ベルニージュは言う。「ほら、何でか知らないけど禁忌文字が強力になってるでしょ?」
「ええ、そうですわね。なぜかは知りませんが、不思議ですわね」
「魔法使いとしてはそんなもの調べないわけにはいかないからね」とベルニージュは諦めたような口調で言う。「特にサンヴィアは禁忌文字の本場、みたいなものだから。つまり単純に墨の需要が高まってるってわけ」
「それは、どうしたものでしょう」とレモニカは眉を寄せて呟いた。
ベルニージュは革の外套を仕立屋から受け取ると尋ねる。「そうだ。仕立屋さんなら鏝を持ってるよね? あとで返すから貸してくれない?」
「別に構わないですけど、何に使うんですか?」
「魔法使いだよ? 魔法に決まってるじゃん」
店を出ると、ベルニージュは迷わず道を決めて進む。それは街の中心へと伸びる大通りだ。
レモニカが慌てて追いすがって尋ねる。「どこへ行くのですか? 何か他に買い物があるのですか?」
「うん。まだ心当たりがあるからね」とベルニージュは答えた。
「いったいどこへ? それに鏝を何に使うのですか?」
「太陽と苛立ちの神、ジャングヴァンの神殿。あとは着いてからのお楽しみだね」とベルニージュは言った。
ジャングヴァンの神殿はヒデットの街を南北に貫く大通りの交わる所にある。より正確には大通りの交わる所には神聖な広場があり、そここそが信仰の中心地だ。その広場を取り囲むように、しかし大通りを塞いでしまわないように四棟に分かれた建築物があり、それもまた太陽の神の偉大さを讃えるような豪奢な造りではあるが、神に身を捧げる神官や巫女の清貧な生活の場として主に使われている。
その広場こそがヒデットの街において、またこの盆地において最も低い場所である。それゆえにこの土地で捧げられる太陽の神への祈りは全て盆地を吹き下ろす風に乗ってこの広場へと集まる。
広場の中心にはジャングヴァンの色彩豊かな偶像ではなく、日干し煉瓦の堅牢な土台の上に無数の凹面鏡で構成された巨大な太陽炉が設置されている。凹面鏡の照らし出す先には器のような白銀の円い炉が設えられており、太陽から賜った炎が沢山の白い灰の真ん中で燃え盛っている。盆地のあちこちから集まった祈りはこの炉で温められた空気と共に天へと昇り、ジャングヴァンの絶えることなき苛立ちを慰めるのだ。
そして、その周囲では魔法使いたちが思い思いに過ごしていた。凪いだ海の如き思索に耽る者もいれば、神官との神秘と不思議を巡る議論に夢中になっている者もいる。今までベルニージュたちがこの街で巡って来た魔法使いたちのどの社交場よりも沢山の人が溢れている。結局のところ、魔法使いと言えど寒い冬に集まる場所など限られているということだ。
「墨を譲ってくださる方、おられるのでしょうか?」とレモニカは広場に視線を漂わせて小さく呟く。
「いないよ、そんなの」とベルニージュは冷たく否む。「奪い合うように買い求める連中しかいないんだから」
「え? ではいったい何をしにこちらへいらしたのですか?」
「墨の代わりにあれを使う」と言ってベルニージュは太陽炉を指さす。
炎の燃え盛る炉のそばに何本もの鏝が立てかけられていた。
「あれは焼き鏝ですか? なんで神殿にそんなものが?」とレモニカは尋ねる。
「この神殿でどう使われているかは知らないけど。焼灼止血用か、でなければ烙印用かもね。それはそれとしてあの炎なら十分に力の籠る文字を作れるよ。何せ神様から力を借りるんだからね」
「焼印ですか。では初めからそのために革の外套を選びましたのね」とレモニカは感心する。「太陽神の神殿で太陽炉から採火した炎で焼印をする、と。確かに強力な魔法の媒体になりそうですわ」
早速ベルニージュは神殿から許可を得て、仕立屋から借りた鏝を炉にくべて熱する。十分に熱を帯びさせると、レモニカの見守る前で革の外套に魔法を込めていく。
今は一部の占い師しか修める者のない甲骨文字。神々さえも懐かしむ古王国の楔形文字。アムゴニムの地下樹林で最初に発見された逆さ文字は、ベルニージュの考えている魔法を行うのにとても役立った。最後に一か所だけ禁忌文字【上昇】を使う段になってベルニージュは手を止めて言う。
「レモニカ、これから【上昇】の焼印を入れるから、念のために周囲を見張っておいて」
「禁忌文字が作れるのですか? ああ、”日は乙女の衣を祝福し”ですものね。確かにそのように解釈することもできますわ。もしかしたら元型文字が完成してしまうかもしれない、と」
「うん。クオルが逃げた方角を見逃すわけにはいかないからね。いくよ」
ベルニージュは慎重に、革の外套の帯留めに、割り印のように焼き鏝を押し付ける。懸念は的中した。眇めていたとはいえ、元型文字の完成によって溢れ出た光は以前よりさらに強くベルニージュを眩ませる。
「レモニカ! 方角は?!」とベルニージュは真っ白な暗闇に向かって叫ぶ。
「東! ですが、おかしいのです! これは、近いです! いえ、違います! すぐそこですわ!」
ベルニージュは見えない目を四方に向けるが、ぼやけた暗闇の向こうで人々が騒いでいるのが聞こえるだけだ。東がどちらかも分からなくなってしまった。すぐそこだ、と言ったレモニカの言葉を理解するのに数秒かかってしまった。
「レモニカ! ワタシの手を取って!」というベルニージュの叫びが、蹄と車輪の大きな音に掻き消される。
「ベルニージュさま!」
レモニカが悲鳴をあげるが、すぐに聞こえなくなり、馬車がどちらの方向へ走っていくのかを聞き取るだけで精いっぱいだった。
クオルは逃げていなかった。どころか虎視眈々とレモニカを狙って機を窺っていた。そしてまさにいま好機を逃さずしっかりと捕まえたのだ。
クオルは逃げているとベルニージュは今まで思い込んでしまっていた。ベルニージュの胸の裡でクオルの声に似た後悔が己を嘲笑う。