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そのことに軽く驚いた尽は、柄にもなく息を呑んで。
扉が閉まるなり、取り消しボタンを押していなかった箱がそのまま上昇を開始したから、(ちょっと待て。俺はともかく本当に彼女は上へ上がるんでいいのか?)とますます不審に感じた尽だ。
(この状態で、上の階に何の用があるんだ?)
そう思いながら、手すりに捕まって何とか立っている様に見える天莉を観察する。
結局のところ、単なる操作ミスだったらしいと、天莉の慌てぶりを見て容易に推察が出来た尽だったのだが。
自分が「さてどうやって彼女を絡めとるか」と策を巡らせるより先に、目の前で天莉が倒れてしまったから。
とりあえず手っ取り早く天莉を休ませることが出来そうな自室へ運び込んだ尽だ。
だが――。
(いくら非常事態だからって……俺とふたりきりになってしまうような個室へ女性社員を連れ込んだのは法令遵守的にまずかったんじゃないか?)
今更のようにそんな当たり前のことに気が付いて、無意識に吐息が漏れた。
きっとこの場に直樹がいたならば、「お前、やっぱりバカだろ?」と叱られていたことだろう。
尽はソファに寝かせて自分の上着を羽織らせた天莉の様子を遠目に見遣りながら、携帯を手に取った。
電話帳から呼び出したのは、先程帰したばかりの〝伊藤直樹〟。
尽は眠っている様子の天莉を起こさないで済むよう、直樹に用件だけ手短にメールした。
***
ついさっきコンプラがどうのと思ったばかりのはずなに、玉木天莉という女性を見ていると、虐めてみたくなってしまったのは何故だろう。
恐らくは自分を気遣ってのことだ。
ふらふらなくせに「私、すぐにお暇しますので」と、出来もしなさそうなことを申し出てきた天莉に、内心イラついた尽だ。
(何故俺を頼ろうとしない?)
尽には加虐趣味なんてなかったはずなのに、彼女を黙らせるために少し意地悪をしてみたくなって。
「――これ以上まだ何か言うようなら別の方法でキミの唇を塞いでしまおうかと思うんだが……。ひょっとして、玉木さんはそっちをご所望かな?」
尽が把握している玉木天莉と言う女性は、とても真面目で身持ちの固い人物だ。
確か玉木天莉は入社して五年目――。
同期で恋人の横野博視との付き合いもそれに匹敵する長さらしいが、彼以外と何かがあったような不義の噂が立つようなことはもちろん、彼氏である横野とだって、社内での業務範囲を超えるような接触があったという話でさえも、一度たりとも流れたことがないという。
実際一年ちょっと前、尽がここへ赴任して来てからも、そういう噂の類いははついぞ耳にしなかった。
社内恋愛をしている社員ならば大抵、大なり小なり甘々な雰囲気だった、などという揶揄話ぐらいは流れて来たりするものなのに。
そんな天莉が、馴染みのない異性からいきなりそんなことを言われて戸惑わないはずがない。
その先に発展するような事態にはなり得ないと分かっていたからこそのハッタリではあったのだけれど、この場に直樹がいたら間違いなく張り倒されていただろう。
そもそもそんな性的な攻め方で彼女をやり込めたいと思ってしまったこと自体に、尽自身驚いていた。
そもそも――。
何故自分は「少し黙りなさい」という言葉とともに玉木天莉の唇へ指先を触れさせてしまったのだろう。
女性社員の身体へ不用意に触れるなどと言う行為は、あってはならないことだ。
それなのについ無意識。思わず触れてしまった天莉の唇は思いのほか柔らかくて。
不覚にも、尽は指以外の部分でもそこへ触れたいと思ってしまった。
(俺の危機管理能力は一体どこへ行ったんだ?)
そこで尻ポケットへ入れていた携帯がブブッと短く、メッセージの受信を知らせる振動を伝えてきたから良かったようなものの――。
それがなかったら、尽はあのまま天莉の上から身を離すタイミングを逸していたかも知れない。
(どうかしてるな……)
何故そんなことになってしまったのか、自分でもよく分からないが、少し頭を冷やした方が良いかもしれない。
そんなことを思って天莉から身体を離した尽だったけれど、それでもせっかくここまで近付けた天莉を易々と離してやるつもりはなくて。
天莉が一人暮らしなのをいいことに自分の家へ来いと強要してしまった。
一人の人間として、弱っている相手を捨て置けないというのはもちろんある。
尽だって人並みにそういう感情は持ち合わせているつもりだ。
だが――。
だからと言ってさして親密でもない部下――しかも異性――を一人暮らしの自宅へ誘うのは違うというのも頭の中では分かっている。
もっともらしく天莉へ告げたように、まだ一人でどうこう出来そうにない様子の彼女が心配ならば病院へ送り届ける方が無難だし、よしんばそれを拒まれたなら『じゃあせめて頼れる家族や友人はいないのか?』と聞くのが普通の流れだろう。
それらの可能性を全てすっ飛ばして『うちへ来い』は正直飛躍しすぎているし非常識だ。
にもかかわらず、自分の問いかけに天莉が泣きそうな顔をして悩んでいるのを見て、尽はもう一押しだと思ってしまった。
「俺が今ここにいるのは、たまたま忘れ物を取りに戻っただけに過ぎない。――明日も早いし、出来れば寄り道などせず真っすぐ家へ帰り着きたいんだ。生憎こう見えて、体調不良の部下をそのまま見過ごしておけるほど冷血漢でもないんだよ。もちろん、キミが抵抗を感じる気持ちも分からなくはないが、俺の顔を立てると思って大人しく従ってはくれまいか?」
本当は忘れ物なんてなかったくせにそこは嘘も方便。
適当な理由をでっち上げて自分のために決断をして欲しいと迫ったら、背後の天莉が息を呑む気配がした。
「で……でも、高嶺常務……」
それでも胸前でギュッと手を握りしめて天莉が逡巡するから。
「キミが俺の提案を受け入れ切れずに迷っている一番の理由は何? まずはそれを考えてみて?」
自分が理性を欠いた申し出をしているくせに、天莉に順序だてた論理的思考を求めるとか……。『俺も大概詭弁家だな』と思って、尽は内心苦笑する。
だが真面目で基本的に素直なうえ、今現在体調不良でちょっぴり思考能力が低下気味な天莉は尽の言葉を真に受けて真剣に悩み始めて。
「――その……常務はおひとり暮らしでいらっしゃるのではありませんか?」
ややしてポツンとそう問いかけられた尽は、『やはりそこか』と小さく吐息を落とした。
尽から見てどう考えても身持ちの固い天莉が、上司の……しかも一人暮らしの男の家に上がり込むなんてことに対して抵抗がないわけがないのだ。
「一人暮らしだが部屋は腐るほどある。何ならゲストルームもあるし、キミが一晩泊まるくらい何てことはない。それに――」
そこで身体の向きを意図的に変えて天莉との距離をほんの少し詰めると、
「この際だしハッキリ言おう。俺はキミに結婚を申し込みたいと思っている」
言って、天莉をじっと見下ろした。
「へ……?」
これには先程「うちに泊まりなさい」と提案した時よりさらに困惑した表情が向けられて。
尽は努めて柔らかく見える笑みを浮かべながら、天莉に畳み掛けた。
「さっき、キミも言っていただろう? 叶うものなら今すぐにでも結婚したい、と」
尽の言葉に天莉が真っ赤な顔をして「あ、あれは寝言でっ……!」と身体を起こそうとしたのと同時。
部屋の入り口の方から「尽! 勝手に入るぞ!」という荒々しい声がして、ノックもなしに扉が大きく開かれた。
その音にビクッと身体を跳ねさせた天莉が、バランスを崩し掛けたから。
尽は思わずふらついた彼女を抱きしめるように支えて。その様を闖入者にバッチリ見られてしまう。
「尽! お前というヤツは……! 僕が言った言葉の意味が分からなかったのか!」
当然と言った調子。
尽は大股でツカツカと近付いてきた男――伊藤直樹――に、肩をガシッと掴まれて。
無理矢理天莉から引き離されて、幼馴染みの怒りに満ちた冷ややかな視線にさらされた。