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その場所には、色がなかった。
視界を埋め尽くすのは、淡い霧と、どこまでも続く平坦な地面だけだ。暑くも寒くもなく、空腹も喉の渇きも感じない。ここは「天国」と呼ばれている場所だった。
「ねえ、ここには何でもあるって聞いてたけど、本当は『無』なだけなんじゃないかな」
隣に座る少年が、退屈そうに地面を指でなぞった。彼の指が触れた場所からは、音もなく銀色の花が咲き、すぐに霧へと溶けて消えた。
人類は「天国」を理想郷だと信じていた。苦しみも、涙も、後悔もない場所。そこに行けば、永遠の安らぎが手に入ると。
けれど、私が実際に辿り着いたこの場所は、あまりにも静かすぎた。
「苦しみがないってことは、それを乗り越えた時の喜びもないってことだよね」
私は、自分の胸に手を当ててみた。かつて誰かを想って締め付けられた痛みも、生きている事の証明である気持ちの悪い音も、今はもう遠い。
もし、地獄というものが「永遠に続く痛み」なのだとしたら、天国は「永遠に続く無」だ。
どちらも、生きている人間にとっては恐怖でしかない。なぜなら、人間の魂は「変化」によってのみ、自分の存在を証明できるからだ。人類は地獄のような『生』を『天国』と呼ぶべきだったのだ。
「僕たち、生きていた頃は、あんなに地獄みたいな毎日を嫌っていたのにね。
僕、あの時は嫌いだった数学の数式、今は必死に思い出そうとしているんだ。じゃないと、自分が『僕』である事が消えちゃいそうで。」
少年が笑う。その笑顔には、生命の輝きが欠け、どこまでも平坦ままでいた。
かつての私たちは、泥臭い日常の中で、必死に「幸福」という名の出口を探していた。満員電車、冷たい言葉、届かない願い。それらすべてから逃れたくて、この場所を夢見た。
けれど、今ならわかる。
本当の『天国』は、この『真っ白』な箱庭にあるのではない。
大切な人の体温を感じた瞬間。
お腹が空いて食べた一口の温かさ。
失敗して流した涙が、頬を伝う熱さ。
夏場のまとわりつくような湿気。
かつて嫌っていたあの音。
それら「失われることが決まっているもの」の中にこそ、神様は天国を隠していたのだ。
「帰りたい?」
少年が問いかける。
「……いいえ。もう帰る場所なんてないもの」
私は立ち上がり、果てしない霧の向こうを見つめた。
ここには「明日」がない。ただ、永遠に続く「今」が横たわっているだけだ。
私たちは、この完璧で退屈な楽園で、いつか自分が誰だったかも忘れてしまうだろう。それでも、最後に思い出すのは、あの泥だらけで、不完全で、残酷なほどに美しかった「地獄のような日々」のことなのだ。
『天国』とは、失って初めてその価値を知る、あの日々の別名だったのだから。
これが私なりの足掻き方だ。