雁木楼
雁木楼
「一刀斎は上手く雁木楼へ潜り込めたみたいだな」
少し離れた場所から雁木楼を眺めながら慈心が囁いた。
「爺さん、あれが見えるか?」銀次が張り店の前に屯する冷やかしの客の方を指差した。
「うむ、目つきの鋭いのが数人、それに町人の格好をしちゃいるが武芸の嗜みがあるものが二人ほど。ありゃ浪人だな、卑しい顔つきでそれと知れる」
「さすが爺さんだな」
「なぁに、昔取った杵柄よ」
「なんだ、そりゃ?」銀次が怪訝な顔をする。
「あやつらが動いたら行動開始じゃ」
「分かったよ、それより志麻ちゃん大丈夫かなぁ?あの年頃の娘が遊女屋に入るなんて普通じゃあり得ねぇ事だからな」
「志麻ももう子供じゃないんだし、閨房の営みの事くらい知っておろう。とは言えいきなりこんな大楼とはな・・・」
「いや、大楼で良かったんじゃねぇのか。場末の小見世は遊女が落ちて行く場所だ、此処は華やかな分まだ救いがあるってもんだ」
「そうじゃな、それより銀次この見世の規模はどのくらいか分かるか?」
「う〜ん、さっぱりわかんねぇ。こんな大楼に上がった事なんて一度も無ぇからな」
「そうか、そりゃ可哀想に」
「爺さんはあんのかよぅ!」
「ああ、儂は昔さる藩の側用人をやっていた事がある。その頃は大商人から夜毎の接待詰めでのぅ・・・」慈心が遠い目をして夜空を見上げる。
「ちえっ、それが昔の杵柄か。何が側用人だ、賄賂まみれの武士の風上にも置けねぇ奴じゃねぇか」
銀次が羨ましそうに慈心に言った。
「銀次、張見世の中に遊女は何人いる?」慈心が訊いた。
「えっと、ひぃふぅみぃよぉ・・・うん、十二人だ」
「手前の格子のそばに座っているのが端女郎、格下の遊女だな」
「じゃあ奥に座っているのは?」
「格子女郎と言ってな、この中から将来の太夫が生まれる。あの真ん中に座っているのが一番人気の遊女だろう」
「太夫は居ねぇのかい?」
「太夫は張見世なんぞに出てこぬわ、一目拝むだけでもお前の一年分の稼ぎが吹っ飛ぶのだぞ」
「ひえ〜、そんなにかかるのか!」
「金はある所にはあるって事だ」
「ふん・・・」銀次が諦め顔で鼻を鳴らす。「で、さっき言ってたこの見世の規模は?」
「うむ、遊女の数が張見世に十二人、このくらいの惣籬なら太夫を二人は抱えていよう。とすると妓楼の二階に最低でも十四の部屋があると言う事だ」
「それを全部調べて回らなくちゃならねぇって事かい?」
「そうなるな」
「兄ぃ大丈夫かなぁ・・・」
「一刀斎の事だ、何か考えがあるんだろうよ」
*******
「一階はここが最後か・・・」一刀斎は二つ目の宴会場の前に立った。
一階は待合と化粧部屋の他は台所と風呂で、客のいる可能性があるのはあとここだけだ。
もう一つの宴会場は襖を開け放ち、客が目隠しをして遊女を追いかけていた。幇間がそれを囃し立て目も当てられぬ有様だ。勿論松金屋もグレイトもそこには居なかった。それに比べてこちらの宴会場はピタリと襖を締め切って妙に静かである。
「なんとかして中を調べられねぇか・・・」
逡巡していると、禿を先に立たせた花魁が廊下を真っ直ぐ伝って来るのが見えた。
一刀斎は素知らぬ顔で廊下の端に身を寄せ通り過ぎるのを待った。
「主さん、厠でもお探しでありんすか?」花魁が立ち止まり話しかけて来た。
妓楼の中を客が一人でうろつく事は無い。たとえ厠であっても付いた妓女が供をするのが尋常だ。怪しまれたのかもしれない。
「いえ、あっしは客じゃねぇんで。商売上のことでちょいとおトラ婆さんに話があってね、婆さんが楼主に聞いてくるって言うんでその間に厠をお借りしようと出て来たんですが、さすが港崎一の大楼雁木楼さんで、広くてちょっくら迷っちまったって次第で・・・」
「そうでありんしたか・・・」花魁は前に立っている禿に声をかけた。「凛や、このお方を厠へ案内して差し上げなさい」
「あい・・・」凛と呼ばれた禿はコクンと頷く。眉の上で切り揃えた前髪が揺れた。
「いや、そのようなご心配には及ばねぇ、あっしの事は気になさらず、どうぞお行きになっておくんなせぇ」
「それではあっちがトラ婆に叱られます、どうぞその子をお連れになっておくんなさんし」
これ以上頑なに断ればかえって怪しまれる。一刀斎は花魁の言葉に従う事にした。
「では嬢ちゃんに厠へ案内してもらうとするか」
「そうなさんしな」
花魁はそう言うと禿に頷いた。
「おじちゃん、こっち!」
禿は一刀斎の手を取ると、廊下の奥に引っ張って行く。
それを見て花魁は、さっき一刀斎が立ち止まった宴会場の襖を開けて入って行った。中の客を見られぬための配慮だろう。
「良い花魁だ」思わず口に出た。
「でしょ!雪乃太夫って言うんだ!」禿が弾んだ声を出す。自分の付いている花魁が褒められて嬉しくない筈は無い。そんな子供心に付け込むのはどうかとは思ったが、背に腹は変えられない。それとなく鎌をかけてみよう。
「ふ〜ん、そんな良い花魁を呼べるなんて、あの宴会場の客はよっぽどのお大尽なんだろうな?」
「花魁の馴染みは江戸の大店の旦那さんだよ・・・でも、なんだか急なお座敷だったみたいで花魁困ってた」
状況としては松金屋である可能性は高い。だが、断定するには早すぎる。
「ふ〜ん、ここには異人さんも来るんだろう?」
凛が露骨に嫌な顔をした。
「雪乃太夫は異人さんのいるお座敷には絶対に出ないから!」
「すまねぇすまねぇ、別にそんな意味で聞いたんじゃねぇんだ・・・」
一刀斎は謝りながらこの座敷はハズレだと思った。
「厠はここだよ」
廊下の突き当たりの扉を凛が指差す。
「ありがとうな」一刀斎が凛の手に小粒を握らせる。
凛は小粒を大事そうに懐に仕舞うと、ペコリと頭を下げて戻って行った。
「さて、振り出しに戻ったな。あとは二階を調べるしかねぇ」
一刀斎は廊下の天井を見上げた。
「とは言え一度戻るか・・・」
*******
「おや・・・薬屋はどうしたんだい?」トラ婆が戻って来て志麻に訊いた。
「さぁ、厠へでも行ったのではありませんか?」
「そうかい・・・」別に疑う様子もなくトラ婆は火鉢の前に座る。
「ところで、あんた楽器はどのくらい出来るんだい?」
志麻は武家の子女の嗜みとして多少の楽器は師について学んだ。だが剣術ほど身を入れて稽古に励んだ覚えは無い。
「筝と琵琶を少しばかり・・・」
「後で聴かせて貰おうかね」
「は、はい・・・」『一刀斎早く戻って来て!』志麻は心の中で叫んだ。
その時廊下を伝う足音がして襖がガラリと開いた。
「婆さん戻ってたのかい、ちょいと厠を貸して貰ったぜ」後ろ手に襖を閉めて一刀斎が入って来た。
「ああ、ちょいとそこに座りな」火鉢にかざした手を動かして畳を示す。
「なんだ?俺はガキじゃねぇんだぜ」言いながらも一刀斎は素直にトラ婆の言に従う。
「あんた何者だい?」直球の質問だった。
「何者って、ただの薬屋じゃねぇか。そりゃちぃとばかし女衒の真似事もやってるけども」
「わっちの目を節穴だと思ってるのかい?あんたの身のこなしはどう見たって只者じゃ無いよ、そっちの娘と同じ武芸者のもんだ」
「はは、そりゃとんでもねぇ誤解だ、俺だって多少は危ねぇ橋渡ってんだ、護身の為に田舎剣術の一つや二つはやったこたぁあるが・・・」
「そんなんじゃないよ、あんたのはもっと本格的だ。人を斬ったのも二度や三度じゃないだろ」
「・・・」
「いいから吐いちまいな、ここに来たのは何が目的なんだ?楼主もそれを言ってくれたら悪いようにはしないと言っている。この曲輪内に役人を入れるわけには行かないからね、大概の事は自分たちで解決するようになってるんだ、それが花街の流儀だよ」トラ婆が一刀斎を見据える。
「はぁ・・・」一刀斎が深いため息を吐く。「万事休す・・・だな」
一刀斎は志麻の方を向いた。
「志麻、今から俺が話す事は一才他言無用だ。勿論慈心にも銀次にもだ」
「どう言う事?」志麻は訳が分からず聞き返す。
「実はな、俺は忍び目付なんだ」
「・・・え?」
「やっぱりそうかい、わっちの目に狂いはなかったね」
「ふん、婆さんの目は誤魔化せねぇか」
「当たり前だ。わっちはこれでも若い頃は太夫を張った売れっ子の遊女だったんだよ。人を見る目がなきゃ今頃は茣蓙を抱えてお歯黒ドブ辺りでのたれ死んでるよ。その目があったから、今は楼主に遣手婆として雇われているんだ」
「待って!」志麻が話を止めた。「今回の事もその仕事の一環なの?」
「ああ、俺は浪人として市井で生活しながら、幕府に不利益をもたらす奴等を探していたんだ。そして今回討幕派に銃を売りつけようとしている外国商人とそれを仲介して暴利を貪ろうとしている日本の商人に行き着いたと言う訳だ」
「じゃあ、残りの半金を取り返すと言うのは・・・」
「口実さ」
「はぁ、馬鹿にしないで!その為に私を遊郭に売り飛ばそうとしたの!」
「だ、だからそれは芝居・・・」
「うるさい!もう一刀斎なんか知らない!」
「す、すまねぇすまねぇ、俺が悪かったなんとか勘弁してくれ!そしてもう少しだけ俺に力かしちゃくれねぇか?」
「知らない・・・」志麻は拗ねたようにそっぽを向いた。
「はぁ、あんたその娘も騙してたのかい?まったく罪な男だねぇ」
「い、いや騙すだなんて人聞きの悪い、俺は・・・」
「けど、ここで痴話喧嘩してる暇はないよ。もしあんたが幕府の犬だと知れたら、この曲輪の総力を上げて排除される。だがこっちも幕府の目付といざこざを起こすのは得策じゃない。そうなる前に下手人を引き渡すからさっさと曲輪の外に連れて行っておくれ」
「いいのか?」
「ああ、うち(曲輪)はそうやって今まで役人の介入を防いできた。これからだって同じさ」
「助かる。決して港崎ここには迷惑は掛けねぇ、約束する」
「そうかい、だったら下手人の名前を教えな。曲輪の男衆に言ってここに連れて来させるから」
「分かった、下手人は・・・」
それから一刀斎は松金屋とグレイトの名前をトラ婆に伝え、トラ婆は全てを飲み込んで化粧部屋から出て行った。
「一刀斎・・・」
「分かってる、もう何も言うな。あとはお前ぇさえ納得してくれたら、俺はこの仕事を続ける事が出来るんだが・・・」
「これは貸しよ!」
「え・・・」
「必ず返してもらうんだから!」
「ははは、分かったよ、必ず返してやる」
一刀斎は志麻の顔を見詰めて頷いた。







