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それから、1っヶ月ほどが過ぎたある日。
「柊吾さん」
「はい?」
「そろそろ、下の名前で呼んでくれませんか?」
不意にそんなことを言われ、柊吾は持っていた瑞樹の鍵へ視線を落とした。
「えっ……下の名前、ですか?」
「ええ。俺はもう、柊吾さんのことを名前で呼んでいるのに」
「それは……黒瀬さんが、そう呼ぶからで」
「俺も、瑞樹と呼ばれたいんです」
穏やかに微笑まれ、柊吾の耳がじわりと熱を持つ。たった二文字の呼び方なのに、今の二人の距離が急に形を持ったようで、口にするにはまだ勇気が足りなかった。
「……それは、ちょっとまだハードルが高くて」
「ハードルですか?」
「だって、いきなり名前で呼ぶなんて……恥ずかしいでしょう」
「では、呼べるようになるまで待ちます」
そう言いながら、瑞樹は少しも残念そうに見えない。むしろ、柊吾が照れていることを楽しんでいるようだった。
「でも、いつかは呼んでくださいね」
「……善処します」
「約束ですよ」
瑞樹が指先を差し出す。子供じみた仕草に、柊吾は苦笑しながらその小指を絡めた。
次の瞬間、そのまま玄関のドアへ背中を預けさせられる。柊吾は瑞樹の肩を押し返そうとしたが、触れた指先に力が入らない。
「ちょっ、黒瀬さんっ、し、仕事は……っ」
「夜勤前の充電です」
瑞樹の唇が、深く柊吾を塞いだ。軽く触れるだけのつもりだったはずの口づけは、いつの間にか息を奪うほど濃密なものへ変わっている。
「充電って……っ、もう十分したでしょう!?」
「まだ足りません」
そう言って、瑞樹はまた柊吾の唇を啄んだ。眼鏡の奥で細められた瞳に、出勤前の人間とは思えない熱が滲んでいる。
「これ以上は、本当に遅刻しますから……っ」
「では、続きは帰ってきてからにしましょう」
耳元で低く囁かれ、腰の奥が否応なく疼いた。今夜、瑞樹は夜勤で帰ってこない。それでも、次に会う約束をされたような気がして、柊吾の胸は甘く騒いだ。
ようやく唇が離れる。
瑞樹は乱れた柊吾の前髪を指先で整え、名残惜しそうに頬を撫でた。
「それでは、行ってきます」
「……行ってらっしゃい」
「柊吾さんに会うために、頑張って来ますね」
「な、何を言ってるんですかっ。夜勤に行くだけでしょう!?」
真っ赤になって抗議する柊吾を見て、瑞樹は満足そうに笑った。そのままひらりと手を振り、隣の303号室へ戻っていく。
ドアが閉じるまで見送ったあと、柊吾は熱の残る唇へ指を当てた。
こんなふうに、瑞樹は出かける前にも自分を求めてくる。短い口づけだけで済む日もあれば、時間を忘れて抱き合い、慌てて身支度を整える日もあった。
それが、いつの間にか二人の当たり前になっていた。
柊吾は瑞樹を見送ったあと、真理子がデイサービスから戻ってくる前に部屋を整え始める。テーブルを拭き、洗濯物を畳み、床に落ちた小さな埃を拾う。
以前なら、母を預けて自分だけが楽になることに、胸が痛んだ。ショートステイへ送り出したあとも、施設から電話が来ないかと何度も携帯電話を確かめていた。
けれど今は、週に二度のデイサービスに加えて、週に二度程のショートステイを利用する予定が、冷蔵庫の横に貼ったカレンダーへ自然に書き込まれている。
「明日はお泊まりの日ね」
真理子にそう言われた時も、柊吾は一瞬だけ手を止めただけだった。
「うん。明日の朝、職員さんが迎えに来てくれるからね」
「そう。楽しみだわ」
母のその言葉に、柊吾は曖昧に笑った。
どうやら母は施設が好きらしい。夕方になると家に帰らないといけないと言って少し不穏になるらしいが、夜は比較的休んでくれると聞いている。 嫌がらずにお迎えの車に乗り込んでくれるのはとてもありがたい事だ。
明日は瑞樹の部屋へ行く。夜勤が終わった瑞樹と一緒に食事をして、翌日、母が帰ってくる時間ぎりぎりまで、何度も身体を重ねるのだろう。
そう思っただけで、身体の奥がじわりと熱を持った。
(……明日、また黒瀬さんに抱かれるのか)
想像した途端、下半身に疼きが走る。掃除の手を止め、柊吾は慌てて掃除機を握り直した。
(僕は、いつからこんな……)
母を預けることへの罪悪感よりも、次に瑞樹へ会える喜びを先に考えている。ショートステイの予定を見て、胸を弾ませている。
気づけば、自分はもう、この関係にすっかり溺れていた。
瑞樹に求められることも、抱き締められることも、眠る前に名前を呼ばれることも、すべてが当たり前になりつつある。
その幸福があまりにも自然で、あまりにも甘かったから、柊吾はそれがいつまでも続くものだと信じてしまっていた。
コメント
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ふぁ〜第78話、もう甘すぎて鼻血出そうだったよ…!😭💕 名前呼びのお願いから始まって、小指の約束からのキスシーン、もうキュンが止まらん!!「充電です」って言いながら柊吾さんを逃がさない瑞樹くん、ずるすぎるでしょ〜!でも最後の「それがいつまでも続くものだと信じてしまっていた」って一文がタイトル「不穏な足音」と重なって、なんか胸がギュッとしたよ…。この幸せがずっと続きますようにって祈る気持ちでいっぱいです😢 次回も楽しみにしてるね!
#婚約破棄
霞花怜
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