合宿の朝と練習︰
部屋の中は、まだ静寂に包まれていた。 外から差し込む朝の日差しが、障子越しに柔らかく広がる。
紬は、ふわっと目を開けた。昨夜の疲れがまだ少し残っている。
隣を見ると、布団の中でまだ眠っている友達の姿があった。そして——
ななめ下に、凍の寝顔。
紬は思わず、その顔をじっと見つめてしまう。
「……こんな風に寝るんだ。」
昼間はいつも冷静で、何を考えているのか分からない時もある。だけど、今は違う。
朝の光が、凍の横顔をやさしく照らしていた。
長い睫毛が、光を受けて透き通るように見える。 普段は気にしたことなんてなかったのに、不思議とその一瞬が目に焼き付いて離れない。
紬は、ふと自分がじっと見つめていたことに気がついて——
「……っ!」
急に顔が熱くなる。 自分でもよく分からない気持ちのまま、慌てて目をそらそうとした。
……その瞬間。
「……ん……?」
凍が目を開けた。
朝の光を遮るように、手をかざしながらまぶしそうに瞬きをする。
紬は、どうしようもなく赤面したまま、心の中で叫ぶ。
(なんで今起きるの!?)
「なんでそっぽ向いてんだよ。」
凍の冷静な声が、静かな部屋に響く。
紬は「ううん!なんでもない!」と慌てて言うけれど、動揺していたせいか、立ち上がった瞬間——
すべって、転んだ。
「あっ!」
ふかふかの布団に足を取られて、紬は見事に倒れ込む。
凍はじっとその様子を見て、ため息混じりに言った。
「いや、本当に何してんだよ。」
紬は顔を真っ赤にしながら、慌てて起き上がる。
ふと、凍が当たり前のように布団をたたみ始めているのを見て、紬は思った。
(凍くん、寝起きいいな……)
なんとなく気になって、そのまま口にしてしまう。
「凍くん、朝に強いの?」
「……あぁ。強い方なんじゃないかな。」
凍は特に気にする様子もなく、手際よく布団を畳んでいく。その様子を見ながら、紬は改めて思う。
凍は昼間と変わらず、落ち着いている。慌てることなんてほとんどない。
それが妙に不思議で、少しだけ羨ましくもあった。
「俺、服着替えるから更衣室入る。」
凍はそう言って、男子更衣室へと入っていった。 紬はその背中をぼんやりと見送ったあと、自分も着替えようと女子更衣室へと向かった。
更衣室の中は、まだ静かだった。 朝の澄んだ空気が少しひんやりとしていて、紬はなんとなく自分の頬を触る。
(……まだ熱いかも。)
さっきのことを思い出してしまった。
凍の寝顔。 朝の日差しに照らされて、長い睫毛が透き通るように見えた瞬間。
「——っ!」
紬はあえて何も考えないようにしながら、急いで練習着に着替えた。
鏡に映る自分の顔を見ると、少し赤みが残っている気がする。 でも、深く考えるのはやめた。
「今日も頑張ろう……!」
小さくつぶやいて、紬は息を整える。
今日も、氷の上でどんな時間が待っているのだろう——。
朝の準備と朝ご飯を終え、紬と凍は練習のためにリンクへと向かった。
広々としたリンクには、すでにコーチたちの姿があった。
紬の担当振付師 川島先生 は明るく、優しく生徒を迎えてくれる先生だ。 凍の担当振付師 水江先生 は、飄々とした雰囲気を持つちょっと天然っぽい指導者。
紬は、川島先生の姿を見つけると、嬉しくなって駆け寄った。
「先生、おはようございます!」
「紬ちゃん、おはよう!今日も楽しく滑ろうね!」
その明るい声に、紬は自然と笑顔になる。
しかし、そのすぐ横で——
「……なんでお前がいんの。」
不機嫌そうな声が響いた。
水江先生に向かって、凍がじっと視線を向けている。
「いや〜、ついていかないと振り付けできないでしょ。」
水江先生は、まるで気にしていない様子で、のんびりと答えた。
凍はわずかに眉をひそめながら、ため息をつくように氷を踏みしめた——。
リンクに立った瞬間、冷たい氷の感触が足に伝わる。
紬は準備運動をしながら、ちらりと凍を見る。
「……え?」
凍は無言のまま、すでに跳んでいた。 3回転アクセル。着氷。すぐに次のジャンプへ。
「え……え?」
紬は思わず振付師の水江先生の方を見る。
「ん?あぁ、凍くんは今日ひたすらジャンプ練習だからね〜。」
軽い口調でそう言われ、紬は一瞬言葉を失う。
「……永遠に跳ぶってことですか?」
「そうそう!跳べるまでずっとね!」
紬は、顔を引きつらせた。 凍がやっているジャンプの数とスピードを見て、さらに驚愕する。
3回転アクセル → 2回転ルッツ → 3回転ループ……
どれも正確な軌道で、無駄な動きがない。 それなのに、涼しい顔は変わらない。
(……これ、人間の練習量じゃなくない?)
紬は心の中で叫びつつ、自分の練習に戻った。
紬の練習は、前回失敗したジャンプの修正だった。
アクセルは踏み切りが甘く、着氷が不安定だった。 ルッツも、タイミングを少しずらすとバランスが崩れる。
紬は何度も跳んで、川島先生と微調整しながら修正していく。
「大丈夫、紬ちゃん!いい感覚になってきてるよ!」
川島先生の明るい声に、紬は気持ちを落ち着かせながら頷いた。
それでも、ジャンプを決めるたびに横目で凍を見る。
何十回跳んでも、凍は平然としていた。
汗もかいているはずなのに、その表情に変化はない。 ただ、黙々と跳び続けている。
「……本当に人間なのかな。」
紬は思わず呟いた。
数時間後。
「……終わり。」
水江先生が練習終了の合図を出した。
凍は最後の3回転ループを着氷すると、静かにリンクの端に戻る。
紬は改めて彼の顔を見てみた。
(やっぱり変わらない……涼しい顔のままだ。)
「ねえ、凍くん……疲れないの?」
ふと、聞いてみた。
凍はタオルで軽く汗を拭きながら、紬を見た。
「ん?……まぁ、疲れるけど。」
その言葉に紬はまた驚いた。
「え!?じゃあなんでそんな涼しい顔してるの!?永遠に跳んでたのに!」
凍は少し考えた後、淡々と答えた。
「……慣れたから。」
紬は、何かを悟ったような気がした。 (……これが、本当にトップを狙う選手の感覚なのかもしれない。)
練習は終わったはずなのに、紬は少しだけ凍の背中を見つめていた——。
夕食、就寝︰
食堂にはにぎやかな話し声が広がっていた。
練習を終えた後のご飯は、みんなにとって待ちに待った時間。 紬も、お腹が空いていたから、楽しみにしていた——はずだったのに。
「……トマト。」
皿の端に乗っている、赤くてツヤツヤしたそれを見た瞬間、紬は表情を曇らせた。 苦手なのだ。どうしても、あの独特な風味が受け付けない。
そんな紬の様子を、隣に座っていた凍はじっと見ていた。 そして、何の躊躇もなくヒョイッと手を伸ばすと、紬のトマトを横取りしてそのまま食べた。
「……え?」
紬が驚いていると、凍は淡々とした口調で言った。
「嫌いなんでしょ。」
その一言に、紬は何とも言えない気持ちになった。
(分かってくれてる……)
食べたくないものを押し付けられることもなく、ただ自然に処理してくれた。 そのことが妙に嬉しく感じられたけれど——。
「ありがとうは?」
凍は、当然のように要求してきた。
紬は、なんだか悔しくなって、ため息をつく。
「……ありがとう。」
口調は少し投げやりだったけれど、言わないわけにもいかなくて。
凍はそれを聞くと、何も言わずに食事を続けた。 そのさりげないやりとりが、なぜか紬の心に静かに残っていた。
夜も更け、合宿所は静かになっていた。
みんなが寝静まったころ、凍はひとりで廊下を歩き、自動販売機の前で立ち止まった。 静かな機械音と共に、彼の手の中に夏限定の苺アイスが落ちてくる。
紬はその様子を遠くから見ていて、思わず笑ってしまった。
「……何?」
凍が気づき、不機嫌そうに視線を向けてくる。
「悪い?」
別に悪いわけではない。ただ、凍がこういうものを買っているのがなんだか意外で、紬は首を横に振った。
「ううん、なんでもない。」
それ以上何も言わず、二人は部屋へ戻る。
しかし、扉を閉めたあと、やっぱり会話は始まった。
部屋に戻ると、外の夜風が静かに窓を揺らしていた。
凍は特に何も気にすることなく、ベッドに腰を下ろし、アイスを食べ終えてから淡々とゴミを片付けた。
紬も自分の布団に座る。でも、なんとなく落ち着かない。
(……なんだろう、この感じ。)
たぶん、さっきのこと。 凍の寝顔を見てしまったこと。 アイスのこと。
別に恋愛感情っていうわけじゃない。 でも、異性として「ドキッ」とすることはある。
紬は少し考え込んだあと、凍に話しかける。
「ねえ、凍くん。」
「……ん?」
凍はいつも通り、冷静な顔でこちらを向く。
紬はどうしようか少し迷ったあと、ふわりと笑った。
「そのアイス、おいしかった?」
凍は一瞬だけ、驚いたような表情をした。でもすぐに普通に答える。
「まあ、悪くなかった。」
なんてことない会話だけど、紬は「悪くなかった」っていう言い方に、少し笑ってしまった。
「ふふっ。凍くん、やっぱり甘いもの好きなんだね。」
「……だから、それが悪いのか?」
凍が少しムッとしたように言う。
紬は慌てて首を振る。
「違う違う!いいことだよ、なんかかわいいし。」
「……は?」
その言葉に、凍は完全に眉をひそめた。
紬は「しまった」と思いながら、なんでこんなことを言ってしまったんだろうと自分を責めた。
(変な意味じゃないんだけどな……)
でも、凍は「別に」と言ってそれ以上深くは気にしていないようだった。
紬は、ちょっとだけホッとしながら、布団の中に潜り込む。
(……なんか、ドキドキしたな。)
それが恋愛感情じゃないと分かっていても、なんとなく心が揺れる夜だった。
深夜の予想外︰
静かな夜の空気の中、凍はふと目を覚ました。
視界がぼんやりとする中、目を開くと——
目の前に紬。
しかも、ものすごく近い。
「は!?」
凍は無意識に声を上げた。
紬は、無防備な顔でぐっすりと眠っている。 いつものように元気な様子はなく、静かに息をしている。
しかし、それよりも——距離が近すぎる。
流石の凍でも、一瞬で赤面した。
(……いや、なんでこんな近くに!?)
考えるより先に、体が反射的に後ずさる。
凍は後ずさったまま、心を落ち着かせようとしていた。
しかし、静かな部屋の中で——
「……凍くん。アイスで風邪引いちゃダメだよ。」
紬の寝言がふわりと響いた。
その瞬間、凍は完全に固まる。
(……なっ……!?)
不意打ちすぎる優しい寝言に、一気に顔が熱くなる。
しかし、それを悟られたくなくて——
枕を投げた。
「んーー!?」
紬は驚いて、枕の下から声を上げる。
ゆっくりと目を開き、寝ぼけた顔で凍を見た。
「……どうしたの、凍くん。」
凍は赤くなりながらも、視線を逸らして淡々と答える。
「わりぃ。何もない。」
しかし、紬はふと気づいた。
(……凍くん、耳赤くない……?)
そのことに気づいた瞬間、紬まで赤くなってしまう。
凍は紬の反応を見て、ふっと口角を上げた。
「……おやすみ。」
挑発するような表情を浮かべたかと思うと、そのまますぐに寝てしまった。
紬は布団の中で小さく息を吐きながら、今の出来事を考えていた——。
(……私、なんか変な夢でも見てたのかな。)
夜の静寂の中、鼓動だけがやけに響いていた——。
つづく
コメント
2件
コメントありがとう!合宿続きます!
凍くんのギャップが超絶かわよい💞💞✨️✨️ 最高👍️👍️ 紬ちゃんも可愛いねカワ(・∀・)イイ!!