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夜の闇が降りる頃、朔は屋根の上にいた。
ひとつ、またひとつ、静かに明かりが灯る町。
風に乗って、誰かの笑い声が聞こえた。
その音が、遠い過去のように思えた。
彼の手には、冷たい鉄があった。藤吉。朔が名付けた、大切な刀。
その刀だけが、まだ自分を人間として繋ぎとめてくれている気がした。
──昔のことは、よく覚えていない。
気づいたときには、影月組《かげつぐみ》の一員だった。
五代目の〝刀〟として仕込まれた日々。
初めて人を殺した夜、何も感じないように心に蓋をした。
「感じたら壊れる」
そう教えてくれた人はいなかったが、本能がそう言っていた。
それから何年も、朔は感情を押し殺して生きた。
笑顔を癖にし、誰にでも柔らかく接した。
〝優しい〟と評された。だが、それは仮面だった。
自分ですら、その仮面の外し方がわからなくなっていた。
その日、任務は簡単なものだった。標的は一人、証拠を残さず消せ。
だが、標的の屋敷には思いがけず子供がいた。まだ六つか七つ。
彼女は目を見開き、震えながら朔を見た。
朔の中で、何かが揺れた。
足が止まる。手が動かない。
〝殺せ〟
頭ではわかっている。だが、身体が動かない。
「さっさと殺せよ」
背後から声がして、次の瞬間、赤い飛沫が朔の頬を濡らした。
子供の小さな頭が、転がった。
──仲間だった。
彼は何の迷いもなかった。
朔の胸の奥で、凍りついていた何かが崩れた。
「……なんで?」
小さく、呟いた言葉に、誰も気づかなかった。
けれど、朔の中ではその一言が、何度も何度も反響していた。
何で? 何で? 何で?
その夜から、朔は夢を見るようになった。
昔、笑っていた頃の夢。
小鳥のトリスケを追いかけて庭を走り回っていたあの日。
親友と空を見上げて笑っていたあの時間。
──心が動き出していた。
「お前、最近変だぞ」
親友がぼそりと言った。
朔は笑って、首を横に振った。
「そんな事ないよ」
「……ふーん」
親友はそれ以上言わなかった。だが、その瞳は何かを見透かしていた。
朔は、笑った。今日も笑った。
蓋をして、仮面を被って、それでも――
心は確かに、動いていた。
その夜、朔は眠れなかった。
手にこびりついた血の感触が、何度洗っても消えない気がしていた。
自室に蹲り、藤吉の鍔に額を当てる。
「……俺、何してるんだろう」
震える声で、誰にも届かぬ独り言をこぼす。
怒りなのか、情けなさなのか、自分でも分からない。
ただ、胸の奥に渦巻くものが、じりじりと自分を侵食していくのが分かった。
けれど朔は、ちゃんと分かっていた。
自分は〝刀〟。
決して誰にも知られてはいけない。
弱さは見せてはいけない。
ましてや、人を殺めることに恐怖を抱くなど――許されるはずがない。
なのに、何で?
それはまるで堂々巡りで、一種の呪いのようだった。
出口のない迷路を、ただただ彷徨っているみたいだった。
「きついな……」
ぽつりと呟いて、また額を鍔に押し付けた。
眠れぬ夜は、容赦なく長かった。
そして朔は、まだ知らなかった。
その夜明けが、すべてを変えることになる――紅に染まる、呪われた出会いを。
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