なにを持っていけばいいんだろうな?
土曜日の朝、夏菜はカラのキャリーバッグを手に自分の荷物が置いてある物置のような小部屋で固まっていた。
今は大広間で寝ているので、荷物はすべて此処に置いているのだが。
そもそも、そんなに荷物がないし。
……洋服。
化粧品。
……ぐらいかな。
カサカサと詰めていると、
「夏菜」
と祖父、頼久の声が障子の向こうからした。
はい、と振り向くと、頼久がひとりで現れ、いきなり床に正座する。
おじいさま、此処、フローリングです。
冷たいですよ、と思いながら、夏菜もその前に正座した。
懐から出してきた厚みのある白い封筒を頼久は夏菜の前に差し出す。
「なにか足らないものがあったら、これで買いなさい」
「えっ?
あの、ちょっと週末に一泊してくるだけなんですけど」
「だが、毎週のことになると思うし。
家具でも家電でも服でも車でも、いるものがあったら買いなさい」
……ということは、家具でも家電でも服でも車でも、ひょいと買えるくらい入っているということでしょうか。
「持っていきなさい。
本当は加藤でもつけてやりたい気持ちだが、それもかえって困るだろうから」
ふたりで食事をするとき、並んでソファでテレビを見ているとき。
常に、微笑み側にいる加藤を想像してみた。
うーむ。
でも、待てよ。
加藤さんも一緒に食事とかするよね?
妄想の中で、加藤と三人でテーブルを囲み、加藤を真ん中に挟んで、三人でソファに座ってテレビを見る。
……二人きりより落ち着く気がするけど、加藤さんが落ち着かないだろうし。
此処にいるのと変わりない感じになるから、社長がくつろげないかな。
などといろいろ考えている間に頼久が、
「いいから持っていきなさい。
お金でも、ないよりはあった方がなにかお前の助けになるかもしれないから」
と言ってくる。
使うつもりは毛頭ないが、受け取った方が頼久が安心しそうなので、とりあえず、受け取ることにした。
「……おじい様、ありがとうございます」
と言うと、頼久が少し涙ぐむ。
おじい様のお気持ちは嬉しいけど。
まるで、もう嫁に出る感じに盛り上がってるのが気になるな……、と思いながら、夏菜は立ち上がった。
「で、では、行ってまいります」
スカスカのキャリーバッグに、ほんのちょっと洋服と化粧品と、お金の入った封筒だけを入れ、夏菜は屋敷を出て行った。
みんなに見送られ、
何故か縁側の柱の陰から見送っている銀次にも見送られ、
夏菜は有生とともに、山を下る。
少し先を歩く有生が、
「それ貸せ」
と夏菜のキャリーバッグを持とうとした。
「あー、いえいえ。
なにも入ってないんで」
と断ったが、
「だが、邪魔だろう」
と言って持ってくれる。
なにか社長がいつもより優しいような……。
社長に荷物を持たせるとか抵抗あるんですが。
一応、婚約者なのでいいのでしょうか……とちょっと赤くなりながら、有生のあとをついて、山道を歩く。
……ほんとうに軽いな。
有生は夏菜のキャリーバッグを手に思っていた。
舗装されてない道だし、抱えて歩いた方が楽そうだ。
しかし、こいつ、一泊で帰る気満々だな。
指月が言ったように、ラブラブになって道場に戻らない未来なんて、何処にもなさそうだ。
というか、そもそも、たった一泊で夏菜の気持ちを変えられるような恋愛的技術が俺にはない……。
それにしても、
「頑張りたまえ」
と夏菜のじいさんに見送られたんだが。
……なにをどう頑張ったらいいんだろうな?
手は出すなと言われたのに、と生真面目に思いながら、有生は下を見る。
少し広くなっている場所に車が待っていた。
前に立って待つ黒木がこちらに気づき、頭を下げてくる。
車の中で有生が訊いてきた。
「どっちがいい?」
「は?」
「いや、よく調べたら、あの辺りにふたつ、今、空いてるマンションを持ってたんで、お前に選ばせようかと思って」
よく調べないとわからないの、どうかと思いますね……と思っていると、ほら、と有生がスマホを見せてきた。
ひとつは木の匂いがするような部屋だった。
無垢材のフローリングが印象的で、家具もあまり置いてないが、ともかく広く、部屋の構造が少し変わっている。
もうひとつは白と黒で統一された部屋で。
素敵なホテルのロビーかと思いきや、家のリビング、みたいな。
えっ? 此処にふたりで住んでもいいんですか。
なんだかもったいない、という感じだった。
「ふ、普段、道場に住んでいるので、ちょっと……」
ちょっとギャップがあって、すぐには選べない、と夏菜は言った。
いや、自宅はわりと二個目の部屋みたいな小洒落た造りなのだが。
家族はみんな海外を飛び回っていたり、逃亡していたり、道場に匿われていたりして住んでいないので、あそこもなんだかホテルか、ちょっと覗いてみたモデルハウスみたいな感じで、我が家という感じがしないしな、と思う。
「えーと……
落ち着くのはこっちですかね?」
と夏菜は無垢材で統一された、だだっ広い部屋を選んだ。
「わかった。
黒木」
と有生が住所を言うと、はい、と黒木が頷く。
「必要最低限の家具や家電はあるようだが、まあ、なにかいるものがあったら買いに行こう」
有生が買ってくれると言う。
「いっ、いえいえっ。
あのっ、それでしたら、おじい様からお金を預かっているので」
と夏菜はお金が入っているキャリーバッグのあるトランクを振り返った。
使うつもりはなかったが、社長に払わせるのも悪いから、とりあえず、あのお金をお借りしよう、と思って言うと、
「別にいい。
それくらい買ってやる。
しばらく住むんだから、家具でもなんでもお前の好きな感じに変えていいぞ」
と言われた。
……どうしましょう。
なんだかわくわくして来ましたよ、と思っているうちに、車は、そのマンションに着いていた。
道沿いにある緑の向こうに箱を積み重ねたような不思議な形のマンションがある。
ん?
いつか見た気がするな、と思いながら、夏菜は有生についてロビーに入った。
エレベーターに乗り、
「此処、なにか見たことがある気がします」
と夏菜は呟く。
なにかエレベーターにも見覚えがあるような、と思ったのだ。
「誰か知り合いでも住んでるのか?
もう一軒の方にしようか?」
「あ、いえ。
大丈夫です」
と言うと、
「まあ、どっちも今は空いてる部屋だから、交代で使ってもいいな」
と有生は言い出す。
また、そんなときめくようなことを言わないでください、と夏菜は思っていた。
今の屋敷ではお弟子さんの出入りの関係で、夏菜の部屋もころころ変わるので、荷物は最小限しか持っていないし、部屋を好みに飾りつけようという感じでもない。
……雑誌で見るような素敵なインテリアとか置いてもいいんだ。
結婚とか、社長と一緒に暮らすとかは不安しかないけど。
その一点だけは、なんだか素敵すぎて夢のよう、と他の心配事はさておき、思ってしまう。