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みら

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14
目黒の部屋を出る前。
阿部は、昨日から気になっていた鞄をもう一度開いた。
「鍵……」
財布。
スマートフォン。
メモ帳。
昨日も何度も探したものを、一つずつ取り出していく。
そして。
内ポケットに手を入れた瞬間。
「あ」
指先に。
固い感触。
引っ張り出す。
鍵。
「……あるじゃん」
思わず声が出た。
昨日、あんなに探したのに。
普通に入っていた。
目黒が隣から覗き込む。
「見つかった?」
「うん」
阿部は鍵を見せる。
「昨日ここ何回も見たのに」
「酔ってたからね」
「最悪」
「でも見つかってよかったじゃん」
「まあね」
阿部は少し笑った。
これで。
ちゃんと自分の部屋へ戻れる。
一度、自分の部屋へ戻る。
シャワーを浴びて。
着替えて。
髪を整えて。
鏡を見る。
少しだけ。
顔が熱いような気がする。
二日酔いのせいなのか。
朝のことを思い出しているせいなのか。
多分。
両方。
「……仕事行こ」
考え始めると。
また恥ずかしくなる。
阿部は鞄を持って。
カフェへ向かった。
店に着くと。
宮舘はもう厨房にいた。
「おはよう」
「おはようございます」
「体調大丈夫?」
「うん。ちょっと怠いけど」
「昨日飲みすぎた?」
「ふっかのせい」
宮舘が少し笑う。
「あとで照に怒られるね」
「もう怒られてた」
「ならよかった」
阿部はエプロンをつける。
テーブルを拭いて。
グラスを並べて。
開店の準備を始める。
しばらくすると。
カラン。
扉が開く。
「おはよ」
渡辺だった。
今日は珍しくちゃんと開店前に来た。
「翔太早い」
「失礼だな」
「だって朝いるの珍しいじゃん」
「今日は起きれた」
「えらい」
「子ども扱いすんな」
言いながら。
渡辺は阿部の横を通り過ぎる。
そのまま。
二、三歩進んで。
止まった。
振り返る。
「あべちゃん」
「何?」
「ちょっと来て」
「え?」
「いいから」
阿部は首を傾げながら渡辺のところへ行く。
「何?」
「後ろ向いて」
「なんで?」
「いいから」
言われるまま背中を向ける。
渡辺が。
阿部の髪に触れた。
「翔太?」
「じっとして」
「何してるの?」
「直してる」
「どこを?」
「髪」
阿部はますます分からなくなる。
朝。
ちゃんと整えてきたつもりだった。
渡辺は。
阿部の髪を手際よくまとめていく。
「はい」
「……何でハーフアップ?」
阿部が振り返る。
渡辺は。
阿部の顔を見る。
それから。
すごく分かりやすくにやっと笑った。
「めめでしょ」
「……何が?」
本気で分からない。
阿部が首を傾げると。
渡辺の笑みが深くなる。
「分かってないの?」
「何を?」
「じゃあ鏡見てくれば?」
「だから何?」
渡辺は。
阿部の頸元を指差した。
「頸にお花咲いてる」
「……は?」
阿部は一瞬止まる。
それから。
急いでスマートフォンのカメラを開く。
前髪を避けて。
頸を見る。
「……え」
薄く。
赤い跡。
一つ。
「……」
阿部の顔が。
一気に熱くなる。
「え、何これ」
「何これじゃないでしょ」
渡辺が笑う。
「めめでしょ?」
「……多分」
「多分?」
「いや、めめしかいないけど」
「じゃあ確定じゃん」
「でも」
阿部は頸を押さえる。
朝。
キスはした。
それは覚えている。
でも。
こんなところに跡がつくようなことまで。
いつ。
「昨日?」
「知らないよ」
「寝てる時?」
「俺に聞くな」
渡辺は完全に面白がっている。
「で?」
「何が」
「何があったの?」
「……何も」
「何もない人は頸に花咲かないでしょ」
「キスはした」
言った瞬間。
渡辺の目が大きくなる。
「へえ」
「その顔やめて」
「で?」
「でって何」
「そのあと」
「そのあとって」
「食べられちゃった?」
「違うよ!」
阿部は即答した。
それから。
少し考える。
「……多分」
渡辺が吹き出す。
「多分って何!?」
「だって昨日酔ってたし!」
「覚えてないの?」
「覚えてるよ!」
「じゃあ分かるでしょ」
「途中で寝たの!」
「もっとだめじゃん」
「何が!」
渡辺は笑いすぎて。
カウンターに手をついている。
阿部はますます顔が熱くなる。
「ほんとに何もしてないって」
「多分?」
「……多分」
「また言った」
「うるさい!」
そこへ。
厨房から宮舘が顔を出した。
「何騒いでるの?」
渡辺が。
すぐ答える。
「あべちゃんの頸に」
「翔太!」
阿部が慌てて止める。
渡辺は。
楽しそうに笑う。
「何でもない」
「絶対何かあるでしょ」
宮舘が不思議そうに見る。
阿部は。
髪で頸元を隠すように触った。
「何もないから」
「ほんと?」
「ほんと!」
少し強めに言うと。
宮舘は。
「ならいいけど」
と微笑んで厨房へ戻っていく。
渡辺は。
まだ笑っていた。
「今日めめ来るかな」
「来なくていい」
「昨日まで来てほしそうだったのに」
「今日はいい」
「なんで?」
「この顔で会えない」
「どの顔?」
「知らない」
阿部は。
頸を隠すように髪を触る。
渡辺が直してくれたハーフアップのおかげで。
ちょうど跡は目立たなくなっていた。
「ありがと」
小さく言う。
渡辺が。
少しだけ笑い方を変える。
「どういたしまして」
それから。
また。
にやっとする。
「でもあとで詳しく聞くから」
「話さない」
「絶対聞く」
「嫌だ」
阿部は。
逃げるようにテーブルの方へ戻る。
でも。
歩きながら。
少しだけ。
頸元に触れる。
赤い跡。
見つけた時は驚いた。
恥ずかしい。
ものすごく恥ずかしい。
それなのに。
昨日。
目黒に好きだと言われたことを思い出すと。
嫌ではなかった。
むしろ。
少しだけ。
嬉しいと思ってしまった。
そんな自分に気づいて。
阿部はまた。
顔が熱くなった。
その日のランチ。
開店して少し経った頃、入口のベルが鳴った。
カラン。
「いらっしゃいませ」
反射的に顔を上げた阿部は、そのまま一瞬固まった。
目黒だった。
「あ」
目黒もすぐに阿部を見つけ、いつものように笑う。
「あべちゃん、お疲れ」
「……お疲れ」
朝、あんな話をしたばかりなのに。
目黒はあまりにも普通だった。
好きだと言われて。
自分も好きだと伝えて。
キスまでした。
それなのに、いつもと同じ顔でカフェにやってくる。
阿部の方だけが意識しているみたいで、なんとなく悔しい。
「今日のランチ何?」
「……クリームパスタ」
「美味しそう」
「館さんが作るから美味しいよ」
「じゃあそれ」
「ランチ一種類だから聞かなくてもそれだけどね」
いつもの会話。
なのに、目黒と目が合うだけで少し落ち着かない。
阿部は逃げるように厨房へ向かった。
その様子を。
カウンターにいた渡辺がじっと見ていた。
「……何」
阿部が聞く。
「別に」
「絶対何かあるじゃん」
「いやあ」
渡辺はにやにやしながら目黒を見る。
そして。
阿部が止めるより先に口を開いた。
「めめ」
「ん?」
「結局、お召し上がりコースだったの?」
「翔太!」
阿部の声が店に響く。
目黒は一瞬きょとんとしてから。
すぐ意味を理解したらしい。
「ああ」
顔が熱くなる。
渡辺は楽しそうで仕方がないらしい。
「で? どうなの?」
目黒は阿部を見る。
阿部も見る。
お願いだから余計なことを言わないで。
そんな気持ちを込めて睨んだ。
目黒は少し考えるような顔をしてから、笑った。
「秘密」
「おお」
渡辺の目が輝く。
「秘密だって、あべちゃん」
「何もないから!」
「俺、何もあったって言ってないけど」
「秘密って言ったじゃん!」
「秘密は秘密」
完全に面白がっている。
阿部はますます顔が熱くなった。
「もう仕事戻る」
「逃げた」
「逃げてない!」
トレーを持とうとした阿部を見て、目黒がふと頸元へ視線を向ける。
ハーフアップにしているから、朝よりは隠れている。
それでも。
見る人が見れば分かるらしい。
目黒が少し残念そうに言った。
「隠しちゃったんだ」
阿部の動きが止まる。
「……誰のせいだと思ってるの」
「俺」
「分かってるじゃん」
渡辺が二人を交互に見る。
「やっぱめめなんじゃん」
「だからそうだって言ってるでしょ」
阿部が諦めたように答えると、目黒は楽しそうに笑った。
そして。
何でもないことのように言う。
「本当はもっと濃く付けたかったんだけど」
「……は?」
阿部は目黒を見る。
渡辺も目を見開いた。
目黒だけが平然としている。
「でも昨日あべちゃん酔ってたし、途中で寝たからやめた」
「やめたって、今これあるんだけど」
阿部は頸を押さえる。
「それは寝る前」
「……覚えてない」
「じゃあ答え合わせ一個増えたね」
「増やさなくていい!」
阿部が赤くなるほど、目黒は楽しそうだった。
「めめ、ヤバいね」
渡辺がぽつりと言う。
「そう?」
「そうでしょ」
そして、阿部の肩をぽんと叩く。
「あべちゃん」
「何」
渡辺は妙に真面目な顔を作って。
「ヤバいのに捕まっちゃったね」
「……今それすごく実感してる」
阿部が答えると、目黒が笑った。
「ひどくない?」
「めめが言う?」
そう返しながらも。
阿部は少しだけ笑ってしまった。
恥ずかしい。
でも。
嫌ではない。
それが一番困る。
その日の夜。
阿部はいつものバーにいた。
カウンターに座ると、岩本が聞く。
「何飲む?」
阿部は迷うことなく答えた。
「ノンアル」
少し離れたところから、深澤が吹き出す。
「ふはっ」
「何」
「いや、学習したなと思って」
「誰のせいかな?」
「俺です」
深澤は素直に手を上げた。
岩本が横から睨む。
「今日は絶対ふっかに作らせないから」
「分かってるって」
「信用ない」
「昨日一回だけじゃん」
「その一回で十分」
岩本がノンアルコールの飲み物を作り始める。
阿部はほっと息を吐いた。
今日は絶対に酔わない。
昨夜みたいなことになったら。
今度こそ何を口走るか分からない。
「はい」
岩本がグラスを置く。
「ありがとう」
一口飲む。
甘さはあるけれど、当然アルコールの感覚はない。
安心する。
――はずだった。
「あべちゃん」
隣から声がする。
嫌な予感。
見る。
深澤。
その隣には。
いつの間に来たのか渡辺まで座っている。
二人とも。
同じ顔をしていた。
「……何」
「昨日どうだった?」
深澤が聞く。
「何が」
「めめに送ってもらったあと」
「何も」
「嘘」
今度は渡辺。
「頸に証拠ある」
「翔太!」
阿部は慌てて髪を押さえる。
「え、何?」
深澤の目が輝く。
「頸?」
「ふっかには言わなくていい!」
「何それ見せて!」
「嫌だよ!」
深澤が覗こうとするのを、阿部は身体ごと避ける。
渡辺は横で楽しそうに笑っている。
「朝、俺が隠してあげたんだよ」
「だから言わなくていいって!」
「めめ?」
「……うん」
「うわー」
深澤がにやにやする。
「ついに?」
「何がついにだよ」
「で、どこまで?」
「何もしてない!」
「ほんと?」
「ほんと!」
「食べられちゃった?」
「翔太!」
またそれ。
阿部は頭を抱えたくなった。
「だから違うって!」
「多分?」
朝の言葉まで覚えていたらしい。
「……多分」
「多分なんだ」
深澤まで笑う。
「違う! 昨日途中で俺寝たから!」
「めめのベッドで?」
「……うん」
「抱きしめたり?」
「……した」
「キスは?」
「……した」
「何回?」
「知らない!」
「覚えてるんじゃなかった?」
「回数まで数えてない!」
答えてから。
阿部ははっとする。
全部。
自分から喋っている。
「……もうやだ」
カウンターに突っ伏した。
笑い声が聞こえる。
しかも。
最悪なのは。
館さんもいる。
照もいる。
宮舘は少し離れた席で静かに飲みながら、聞こえていないふりをしてくれている。
岩本は。
明らかに全部聞こえている。
阿部は顔を上げられない。
館さんも照もいるのにやめて。
心の底から思った。
「二人とも、そのくらいにしてあげなよ」
宮舘が助け舟を出してくれる。
「舘さん優しい」
深澤が言う。
「翔太も」
宮舘が見る。
「はいはい」
渡辺はまだ笑っている。
「でもあべちゃん、幸せそうじゃん」
その一言に。
阿部の動きが止まった。
ゆっくり顔を上げる。
少し離れたところには。
目黒がいる。
康二と話しながら、普通に酒を飲んでいた。
こっちの騒ぎも。
多分全部聞こえている。
なのに。
助けるでもなく。
止めるでもなく。
時々、阿部を見て楽しそうに笑っている。
「……めめも助けてよ」
阿部が言う。
目黒はグラスを置く。
「楽しそうだから」
「俺は楽しくない」
「ほんと?」
「……」
ほんと。
そう言おうとした。
でも。
言えなかった。
恥ずかしくて。
からかわれて。
朝からずっと振り回されている。
それでも。
目黒を見ると。
好きだと思う。
誰にでも優しいところも。
自分には少しだけ違う優しさをくれるところも。
意外と意地悪で。
自分が困っている顔を面白がるところも。
全部。
知らなかった。
少し前まで。
目黒はただの隣人だった。
今は。
帰る時間を待って。
一緒にご飯を食べたくて。
会えば嬉しくて。
他の女の人に優しくしていれば嫉妬して。
好きだと言われれば。
こんなに幸せになる。
阿部はノンアルコールのグラスを見つめた。
ふと。
思う。
過去のこと。
目を覚ました時から。
ずっと知りたかった。
俺が誰だったのか。
何をしていたのか。
誰と一緒にいたのか。
どうして一人になりたかったのか。
ずっと。
思い出さなければいけないと思っていた。
でも。
今は。
館さんがいる。
翔太がいる。
照とふっかがいる。
康二。
佐久間。
ラウ。
そして。
めめがいる。
過去を思い出したら。
何かが変わるのだろうか。
今の自分が。
いなくなってしまうわけではない。
そう言ってくれたのは目黒だった。
今こんなに幸せなら。
無理に開けなくてもいい扉なのかもしれない。
阿部は目黒を見る。
目黒が視線に気づく。
「何?」
「……何でもない」
阿部は少し笑った。
目黒も笑う。
その顔を見るだけで。
胸の奥が温かくなる。
もう。
記憶は思い出さなくてもいいのかな。
初めて。
そんなことを思った。
過去を捨てたいわけではない。
怖くて逃げたいわけでもない。
ただ。
今の自分には。
大切にしたいものが。
もうこんなにたくさんできていた。
コメント
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ああもう、第14話めっちゃ良かったです…! 朝のあのハーフアップのくだり、渡辺が直してくれたのに感謝しつつも、まさか頸に花が咲いてるってバレるとは思わなくて(笑)。 阿部ちゃんの「多分」連発、めちゃくちゃ可愛かったです。照とふっかに囲まれてノンアル飲んでるシーンも、もうみんなに愛されてるなあって。 最後の「過去を無理に開けなくていい」って気づき、すごくじんわりきました。今の幸せを選べる強さ、素敵です。続きが気になります!