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番組はスムーズに進行し無事に終わった。
梨乃はもちろん、私も番組終了後は帰宅していいと言われている。
矢嶋たちに挨拶をして、私たちは廊下に出た。
階段を降りて行き、一階へと続く踊り場で彼女と別れた。そのまま私は、二階にあるロッカールームへと足を向ける。その途中、廊下の端にちょっとした休憩用として長椅子が置かれているが、そこに男性が腰を下ろしていた。イベントはすでに終了していた時間だ。一般の人たちが残っているはずがないから、そこにいるのは社員の誰かだろうと思った。軽く会釈して通り過ぎようとした時、その人に声をかけられた。
「あの、すみません。たぶんですけど、ラジオの電話の方ですよね」
「え?」
そのまま足を止めなければよかったものを、つい立ち止まってしまった。見ればその人は、梨乃と共に「もしかして」と思ったあのスーツの男性だった。そしてその声を聞いて私は確信した。
「南風さん……」
つい彼のラジオネームを口にしてしまう。
「やっぱり!いつも電話で聞いている声だ」
男性は嬉しそうに椅子から立ち上がり、私の方へと近づいてきた。
梨乃の言葉が頭に残っていたこともあったが、その顔を見たら、この人とはあまり長く一緒にいない方がいいような気がした。笑ってはいるが、その目が私を品定めでもしているように見えて、首筋や背中の辺りがざわざわした。
適当なことを言ってさっさと立ち去ろうと思ったが、彼の動きの方が早かった。無意識なのか意識的になのかは分からないが、彼は私が進もうとしていた側に立った。
「初めまして、南風です。あぁでも、電話では何度もお話しているから、初めましてでもないですかね。この前電話でも言いましたけど、今日のイベントではラジオスタジオも見学できるってことだったので、すごく楽しみにしていたんですよ。電話の方にも会えるんじゃないかと思って」
「……わざわざありがとうございます」
私の笑顔は引きつっていたに違いない。こんな形で対面することになるとは思っていなかったから対処法を考えていなかった。しかし、あまり無下にするわけにもいかない。
南風は嬉しそうに歯を見せて笑った。
「いえいえ。いつも丁寧に対応してくださってありがとうございます。きっと素敵な方だろうなって思ってたんですけど、想像通りだったなぁ。これ、あなたのために買ったんですよ。受け取ってください」
彼が私の前に差し出したのは、手のひらに載るほどの小さな小箱。何が入っているのかは聞かない。聞いたが最後、受け取らざるを得なくなりそうで恐い。
「いえ、受け取れません。また今度リクエストのお電話などを頂戴できるだけで十分ですので。私、この後も仕事がありますのでここで失礼致します」
そそくさとお辞儀をして、彼の前から立ち去ろうとその傍を通りぬけようとした。ところが、彼に手首をつかまれてしまった。
「ちょ、ちょっと、あのっ!」
彼の手を振りほどこうとしたが、貧弱そうな見た目に反して力が強い。
「せっかくお会いできたんですから、お仕事終わりに一緒に食事をいかがですか?素敵なお店にお連れしますよ」
「いえ、本当に申し訳ございませんが、そういったお誘いは受けてはいけないことになっていますので。手を離していただけませんか」
そんなことは言われていないが、他に適当な口実を思いつかない。やんわりと断りながら彼の手を押し返すが、南風は私の手を離そうとしない。
「そんなのは黙っていれば分かりませんよ。お仕事は何時に終わるんですか?待っていますから」
「何時にとか、そういうことではなく、本当に困るんです」
「ただ食事につき合ってほしいだけですよ。この機会に是非お近づきになりたいと思ってるんです。僕、あなたの声が好きでしてね」
言っていること自体は普通のことだった。しかし、その目つきにぞわりとした悪寒が背筋に走り、ついでに梨乃と交わした会話が思い出された。私の声に関する話題になった時、梨乃が言ったのだ。
『余計に想像をかきたてられるっていうか?』
その時の私はそれに対して、いったいどういう想像なのだと心の中で突っ込みを入れたが、実際に南風に対面してみて、その想像の中身がなんとなくだが察せられてしまう。そしてそれを完全に否定できないとカンが告げる。大事な視聴者の一人だからという遠慮から強く出るのを控えていたが、もう限界だ。私はキッとして鋭い声で言った。
「離して下さいっ」
「そんなこと言わずに」
しかし彼はまだ私の手首を離さない。
このフロアにある部署のスタッフはほとんどが、イベントの撤収作業に駆り出されているはずで、助けは期待できそうにない。
誰に助けを求めたらいいの――。
そう思った時、矢嶋の顔が思い浮かんだ。彼はまだラジオブースにいるはずだ。私たちが部屋を出る時には、テーブルの上でペンを走らせていた。
矢嶋さん、早く降りて来て――。
心の中で祈りながらも、自分でもなんとかしなくてはと、私は南風から逃れようと腕を振る。
「いい加減にしてください。大声を出しますよ」
このフロアで今、そういった行動を取ったところで恐らく意味はない。しかし、彼を怯ませる効果くらいはあるだろうと考えてのことだ。
その時、慌ただしい靴音が聞こえてきた。誰かが階段を降りてきている。もしかしてと期待を込めた目を向けたそこに、矢嶋の姿があった。
来てくれた――。
「どうしました!」
私たちの方へ駆け寄ってきた矢嶋の姿を認めて、南風は驚き動揺した様子だった。
その拍子に彼の手が緩み、私の手首は自由になる。しかしその反動で後ろに倒れそうになった。慌てて飛んできた矢嶋に抱き止められて、危うく転倒を免れる。
「大丈夫?」
「は、はい。なんとか」
矢嶋はほっとしたように肩で息をつき、私を背にかばいながら立つと、南風に向き直った。
「何かトラブルでもありましたか?……おや、局内の方ではないようですね。失礼ですが?」
「あ、あの……」
南風は目を揺らし、おどおどした様子で言い淀む。矢嶋を目の前にしたために緊張しているのか。それとも、私の手を掴んでいた現場を見られてしまったことに対してまずいと思っているのか。すでに笑顔は消えている。
矢嶋はテレビ用の「あの」爽やかな笑顔を作った。
「もしかして、今日のイベントの見学者の方ですか?見学の時間はもうとっくに終わってるはずなのですが、迷われたのですか?」
「え、えぇと、そう!そうなんです!トイレを借りて出てきたら、帰り道が分からなくなってしまいまして。それで、この方に道を聞こうと……」
南風は慌てたように弁解した。
矢嶋は納得したように頷くと、つらつらと言葉を並べ始めた。
「そうでしたか。局内は結構入り組んでいますからねぇ……。そうですよね。わざわざ誰かを待ち伏せするために、どこかにこっそり隠れていたなんてこと、まさかあるわけがないですよね。ここはテレビ局ですからね。例えば万が一にも、建物への不法侵入だとか、ハラスメントのようなことがあったりしたら、すぐにでもテレビカメラが飛んできて、今夜か明日のニュースにでも取り上げられてしまうかもしれないと思ったら、そんなことする人なんて、普通はまずいないでしょうからね」
南風の顔からさぁっと血の気が失せたのが分かった。
「えっ!そんな、本当に道に迷っただけですので……。お騒がせして大変申し訳ありませんでした!」
南風は慌てふためいた様子でぺこぺこと矢嶋に頭を下げる。
「出口が分からないんでしたよね。今、警備員の方を呼びますね。案内してもらいましょう」
「け、警備員!い、いえいえっ!大丈夫です!なんとなく覚えていますので!」
「そうですか?ちなみに出口はそこの階段を使って一階に降りれば、すぐに分かるはずですよ」
南風はもう一度勢いよく頭を下げて、ばたばたと足音を立てて走り去って行った。
その背中が視界から消えて、ようやく私は安堵した。
矢嶋は心配そうな顔で、観察するように私の手や腕を見る。
「どこか掴まれていたみたいだったけど、怪我は?大丈夫なのか?」
「はい、大丈夫です」
「そうか。無事なら良かった」
彼は私の返事に安心した顔を見せ、それから南風が走り去った方に目をやった。
「適当に言っただけなんだけど、あの人、ものすごく血相変えて逃げていったよな。固い仕事でもしている人なのかな。ていうか、誰だったんだ?」
「えぇと、常連のリスナーさんです。覚えてませんか?南風さんって」
「南風……?あぁ、毎週のようにリクエスト入れて来る人か。その人がどうしてお前に絡んでたんだ?」
「えぇと……。お近づきになりたいって言われて、強引に食事に誘われて」
「なんだ、それ」
「梨乃ちゃんが言うには、私を気に入ってくれてたらしい、って」
「は?電話だけでってこと?」
「そういうこと、なんですかね」
「電話がきっかけだけど、実物に会ってみて、お前のこと、いいって思ったってことか?……まったく、どいつもこいつも油断ならないな」
矢嶋は深くため息とつくと、急に私の頭を自分の胸に抱き寄せた。
「ちょっと、こんな所で……。誰かに見られたら」
「俺は全然構わない。とにかく、無事で良かったよ」
しみじみとした矢嶋の声に、私は改めてほっとした。彼が来てくれて本当に助かったと心の底から思うと同時に、まだちゃんと礼を言っていないことに気づく。
「本当にありがとうございました」
「うん」
彼の鼓動が聞こえ、耳に心地よい穏やかなその音に気持ちが緩んだ。そのせいなのか、たぶんわざわざ言わなくてもよかったような言葉がぽろりとこぼれた。
「さっき私、矢嶋さんに早く助けに来てほしいって思ったんです」
「そうか」
短く言った矢嶋の声が嬉しそうだと思った。
彼は私の頭を優しく撫でる。
「夏貴もあとはもう帰るだけなんだろ?今日は俺もこれで上がりなんだ。飯でも食いに行こう。三十分後くらいに通用口の外で待ち合わせしようか」
私は矢嶋の腕の中で素直に頷いた。