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鬱病太宰と中也。
ヨコハマの街を、重たい灰色のカーテンが覆っていた。 止むことのない雨は、アスファルトを叩き、すべての色彩を剥ぎ取っていく。ポートマフィアの最下層にある、光の届かない一室。そこが今の太宰治の「世界のすべて」だった。
「……おい、生きてるか」
鍵の掛かっていない扉を蹴開けて入ってきたのは、中原中也だった。 部屋の中は、腐敗した静寂が支配している。カーテンは締め切られ、湿った空気の中には微かに鉄錆と、放置された包帯の匂いが混じっていた。 ベッドの上には、一塊の肉のような、あるいは抜け殻のような影がある。 太宰は、数日間、指一本動かしていない。食事も、水も、そして彼を彼たらしめていた「嘘」や「虚飾」さえも、今の彼には維持する活力が残っていなかった。
「……中也か。不法侵入は、感心しないな」
掠れた声。それは地表に届く前に消えてしまいそうなほど、細く、脆い。 太宰は視線さえ動かさず、天井の一点を見つめていた。その瞳には、光の一片も宿っていない。ただ、底の見えない沼のような虚無が広がっている。
「手前が連絡も寄こさねぇし、仕事も放り出してるからだ。首領が呆れてたぜ。『死ぬなら勝手に死ねばいいが、組織に迷惑をかけるな』ってな」
中也はわざと乱暴に言い放ち、手近な椅子を逆手に取って座った。 中也には分かっていた。今の太宰に必要なのは、同情でも、優しい言葉でもない。この世に繋ぎ止めるための、痛みにも似た「重力」だ。
「死ねるなら、もう死んでいるよ。……今は、その気力さえないんだ」
太宰がゆっくりと瞬きをする。その動作一つでさえ、重労働であるかのように見える。 鬱病という名の怪物は、太宰から「死ぬための熱量」すら奪い去っていた。ただ、生温い地獄の中で、心臓が動く音だけを数える日々。
「飯は食ったのか」
「……昨日の朝、何かを口にしたような、しなかったような」
「チッ、これだから手前は。……ほら、食え」
中也が持参した紙袋から取り出したのは、湯気を立てる粥だった。中也が自分で作ったのか、あるいはどこかで買ってきたのか。香ばしい出汁の匂いが、死んだような部屋に異質な生気を持ち込む。
「いらないよ。……吐き気がする」
「吐いてもいいから食え。じゃなきゃ、喉の奥まで指突っ込んで流し込んでやる」
中也の言葉は脅しではない。その瞳には、本気の、そしていっそ純粋なまでの怒りが宿っている。 太宰は微かに口角を上げた。それは笑みというにはあまりに歪で、悲しい。
「君は、どうしてそんなに……私をこの醜い世界に留めようとするんだい? 私が消えれば、君の宿敵はいなくなる。清々するだろう?」
「清々するさ。……だがな、手前が決めた死に場所じゃねぇところで、勝手に消えんのは許さねぇ。手前の命の主導権を、鬱病なんかに明け渡してんじゃねぇよ」
中也は太宰の身体を起こそうと、その細い肩を掴んだ。 触れた肌は、驚くほど冷たい。まるで石像に触れているかのような温度のなさに、中也は一瞬、奥歯を噛み締めた。 太宰の身体は、中也の力に抗うこともなく、人形のように引き起こされた。 包帯の隙間から見える肌は青白く、浮き出た鎖骨が痛々しい。
「……中也。重いよ」
「重力使いに向かって何言ってやがる」
中也は構わず、スプーンを太宰の唇に押し当てた。 太宰は、拒絶する力さえ惜しむように、ゆっくりと口を開く。温かい液体が喉を通る感覚。それは、今の太宰にとって苦痛以外の何物でもなかった。感覚が戻るということは、自分がまだ「生きて、苦しんでいる」ことを自覚させるからだ。
「……味がしない」
「だろうな。手前の心根が腐ってんだからよ」
中也は淡々と、しかし確実に太宰に食事を続けさせた。 半分ほど平らげたところで、太宰が激しく咳き込んだ。細い身体が折れそうに震え、胃の腑から込み上げる拒否反応。中也は迷わず太宰の背中を支え、その震えが収まるまで、黙って側にいた。
「……惨めだね」
太宰が、涙さえ出ない瞳で呟く。
「かつての最年少幹部が、こんなところで、犬猿の仲の男に飯を食わせてもらっている。……滑稽すぎて、笑う気にもなれない」
「ああ、惨めだ。見るに耐えねぇよ。……だがな、太宰。俺は手前の『格好良さ』に惚れたわけじゃねぇ。手前という『厄介事』を背負うって決めたんだよ、あの日にな」
中也の言葉には、迷いがない。 ポートマフィアという闇の中で、互いの背中を預け、互いの命を削り合ってきた「双黒」。その絆は、友情や信頼といった甘っちょろい言葉では説明できない。それは、互いが互いの「存在の証明」であるという、呪いに近い共依存だった。
夜が更けるにつれ、雨音はさらに激しさを増していった。 部屋の隅に置かれたランプの小さな灯りだけが、二人の影を壁に長く引き伸ばしている。 太宰は、薬の副作用か、あるいは一時的な充足感からか、中也の膝に頭を預けて横になっていた。 中也はそれを払いのけることもせず、ただ静かに、太宰の乱れた髪を指で梳いている。
「……ねぇ、中也。このまま、海に沈んでいけたらいいのに」
「海か。手前にはお似合いだな。暗くて、冷たくて、逃げ場がねぇ」
「そう。光が届かない場所。……そこなら、何も考えなくて済む。何も期待しなくて済む。……自分が『人間』であることを、忘れさせてくれる気がするんだ」
太宰の声は、眠りに落ちる前の子供のように、頼りなげだった。 彼は常に「人間失格」であることを恐れ、同時に望んでいた。しかし、現実は彼を逃さない。鋭い知性と、過剰な自意識。それが刃となって、彼自身の心を切り刻み続けている。
「……手前が海に沈むなら、俺が海の底まで潜ってって、首根っこ掴んで引きずり上げてやるよ」
「……ふふ、中也は本当に、力尽くが好きだね」
「力尽くじゃなきゃ、手前みたいな捻くれ者は言うこと聞かねぇだろうが」
中也の手が、太宰の額に触れる。熱はない。ただ、そこには確かな「鼓動」がある。
「太宰。……死にたきゃ、死ねばいい。だが、それは今じゃねぇ。俺が『いい』って言うまで、勝手に幕を下ろすんじゃねぇよ」
「……傲慢だな、君は」
「ああ、傲慢だ。……重力ってのは、そういうもんだ」
中也の低い声が、太宰の耳に心地よく響く。 それは、荒れ狂う嵐の中で、唯一信頼できる「錨」のようだった。 どれくらいの時間が過ぎたのか。 窓の外が、微かに白み始めていた。雨は止み、雲の隙間から、頼りない朝日が差し込んでいる。 太宰は、浅い眠りから目を覚ました。 視界に入ったのは、パイプ椅子に座ったまま、腕を組んで居眠りをしている中也の姿だった。 帽子の位置が少しずれ、寝顔は普段の荒々しさが嘘のように穏やかだ。
太宰は、ゆっくりと手を伸ばした。 重い、身体が鉛のように重い。それでも、昨日の絶望的な動けなさに比べれば、ほんの少しだけ、指先に感覚が戻っていた。 そっと、中也の頬に触れる。 温かい。 その温度が、太宰の冷え切った指先に伝わり、心の奥底にある小さな氷を溶かしていく。
「……本当に、救いようがないほど……お節介な男だ」
太宰は小さく呟き、そして、数日ぶりに「明日」という概念を、ほんの少しだけ肯定した。 まだ、霧は晴れていない。鬱病という病は、これからも執拗に太宰を追い詰め、深淵へと引き摺り込もうとするだろう。 しかし、そのたびに、この乱暴で温かい重力が自分を繋ぎ止める。 そう思うと、この「生」という名の呪いも、ほんの少しだけ耐えられるような気がした。 太宰は、中也を起こさないように静かに横になり、差し込む朝日を見つめた。 ヨコハマの街が、再び動き出す。 地獄のような日常。けれど、そこには確かに「二人」が存在していた。
一週間後。 ポートマフィアの廊下を、コートを翻して歩く太宰の姿があった。 顔色はまだ優れないが、その瞳には、いつもの人を食ったような光が戻っている。
「やぁ、中也。今日の帽子、一段と悪趣味だね」
「……手前、いきなり現れて第一声がそれかよ」
廊下ですれ違いざま、中也が苦々しく笑う。 その視線が、太宰の腕の包帯が一新されていることに留まった。
「……体調は」
「最悪だよ。今すぐにでも川に飛び込みたい気分だ。……でも、まぁ、今日の夕飯の献立を聞くくらいには、生きる気力があるかな」
「……フン。なら、上等だ」
中也はそれ以上何も言わず、太宰の横を通り過ぎた。 太宰は足を止め、中也の後ろ姿を振り返る。
「中也」
「あ?」
「……粥、そんなに不味くなかったよ」
「……っ、うるせぇ! 二度と作らねぇよ!」
顔を真っ赤にして歩き去る中也の背中を見ながら、太宰は小さく笑った。 深海のような虚無の中でも、消えない火がある。 それを守り続けるのは、自分ではなく、隣を歩くこの男なのだと。 太宰は、軽やかな足取りで、自分の持ち場へと向かっていった。 雨上がりの空は、どこまでも高く、澄み渡っていた。
それから数日間、太宰は努めて「普通」を装った。 組織の任務をこなし、部下を適当に扱い、嫌味を振りまく。それが彼にとっての武装であり、生存戦略だった。しかし、一度深く沈んだ心は、そう簡単に以前の弾力を取り戻すわけではない。 ふとした瞬間に、足元が崩れるような感覚に襲われる。 昼下がり、誰もいない会議室で独り、資料を眺めている時。文字が滑り、意味をなさなくなり、ただの黒いシミに見えてくる。その瞬間、背筋を凍らせるような冷気が這い上がってくる。自分は今、どこにいるのか。自分は本当に「ここ」に存在しているのか。
「……また、始まった」
太宰はペンを置き、自分の手を見つめた。 指先が微かに震えている。脳の奥が痺れるような、感覚の麻痺。鬱病の波は、潮が引くように去ったかと思えば、忘れた頃に巨大な津波となって押し寄せてくる。 かつては、この感覚こそが自分に相応しいと思っていた。自分は人間ではないのだから、冷たい泥の中に沈んでいるのが正しい姿なのだと。けれど今は、その静寂が恐ろしい。 あの夜、中也が無理やり口に押し込んできた粥の熱さ。 自分の髪を梳いていた、ごつごつとした指の感触。 それらを知ってしまったせいで、一人の沈黙が、以前よりも耐え難いものに変わってしまっていた。
「おい、サボりか。死ぬほど暇そうだな」
不機嫌そうな声とともに、扉が開いた。 現れたのは、書類の束を抱えた中也だった。彼は太宰の様子を見るなり、眉間の皺を深くした。
「……なんだ、その面は。また幽霊にでも取り憑かれたような顔してやがる」
「おや、中也。私に会いに来たのかい? 寂しがり屋だね」
「誰が寂しがりだ、クソ鯖。首領からの伝達事項だ。それと……この間の件の報告書。手前が書かねぇから俺が肩代わりしてやったんだ。感謝しろ」
中也はドサリと書類を机に置くと、太宰の正面に腰を下ろした。 彼は何も言わずに、太宰の顔をじっと見つめる。その視線は、太宰の偽りの笑みを剥ぎ取り、その奥に潜む濁った色を見透かそうとしているようだった。
「……見てるだけで酔いそうだ。外、出るぞ」
「えぇ、嫌だよ。仕事が残ってる」
「嘘つけ。手前が仕事熱心だった試しなんてねぇだろうが。……命令だ。付いてこい」
中也は有無を言わせぬ強引さで、太宰の腕を掴み、椅子から引きずり出した。 連れて行かれたのは、ビルの屋上だった。 かつて、二人が初めて「双黒」として肩を並べた場所。あるいは、何度も死線を潜り抜けた後に、血の匂いを風に流した場所。 そこからは、夕闇に包まれ始めたヨコハマの街が一望できた。港の灯りが点々と灯り始め、街は宝石を散りばめたような輝きを帯びている。
「綺麗だね。……飛び降りるには、最高のロケーションだ」
「飛び降りたら、空中で捕まえてやるよ。地面に激突するより痛い目に合わせてやる」
中也は手すりに背を預け、煙草を一本取り出した。 紫煙が風に乗り、太宰の鼻を掠める。
「太宰。手前が何に怯えてんのかは知らねぇ。いや、知ってても理解はできねぇんだろうな」
「……理解なんてされたら、それこそお終いだよ」
「だろうな。だが、理解はできなくても、隣に立つことはできる」
中也は、燃える煙草の先端を見つめながら、静かに続けた。
「鬱病だろうが何だろうが、手前が『太宰治』であることに変わりはねぇ。手前が自分をゴミだと思おうが、人間失格だと思おうが、俺にとっては……叩き潰しがいのある、最悪の相棒だ」
太宰は、沈みゆく太陽の残滓を見つめていた。 中也の言葉は、相変わらず荒っぽくて、何の慰めにもなっていない。けれど、その言葉の中に含まれる「不変性」が、太宰の揺らぐ足元を固めてくれる。 世界がどれほど変わっても、自分がどれほど壊れても、中原中也という男だけは、変わらずに自分を憎み、自分を呼び、自分をここに繋ぎ止める。 その確信だけが、太宰にとって唯一の救いだった。
「中也。……一つ、頼みがあるんだけど」
「……あ? なんだよ、改まって」
「明日も、また私の部屋に来てくれないか。……扉は、開けておくから」
太宰は、中也の方を見ずにそう言った。 風が強く吹き、太宰の包帯を揺らす。一瞬の沈黙の後、中也は大きくため息をつき、乱暴に太宰の頭を叩いた。
「言われなくても行くっつの。……今度はもっと、マシなもん作ってってやるよ」
「楽しみにしてるよ。……ただし、蟹を入れてくれるならね」
「贅沢言ってんじゃねぇ!」
二人の笑い声が、風に溶けて消えていく。 夜の帳が下りる。けれど、太宰の心には、先ほどよりも少しだけ強い灯が宿っていた。 まだ、歩ける。 暗闇の先にあるものが、救いであろうと絶望であろうと。 この厄介な重力が側にある限り、自分はまだ、地獄の淵で踏み止まることができる。
ヨコハマの夜景は、いつになく優しく、彼らを見守っていた。 鬱病という名の深海は、依然として深い。けれど、その底に沈む前に、必ず誰かが手を伸ばしてくれる。 そう信じることは、かつての太宰には不可能だった。 けれど今は、その手を掴み返すだけの、僅かな「生の熱量」が、彼の胸の中に確かに存在していた。
「さぁ、帰ろうか。中也。お腹が空いたよ」
「……手前、さっき拒否したばっかだろうが!」
軽口を叩き合いながら、二人は屋上を後にした。 明日も、その次も、世界は残酷で、美しくて、そして二人を翻弄し続けるだろう。 けれど、それでいい。 生きるということは、そうした不条理を、誰かと共に分かち合うことなのだから。
太宰は、隣を歩く中也の気配を感じながら、そっと目を閉じた。 心臓の音が、静かに、けれど力強く、夜の空気の中に刻まれていた。