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懐妊披露から一月、十日程前から私は吐き気を催し、食事は匂いの少ないスープなどにしてもらっている。いつ吐き気に襲われるかわからず、夕食は共にできなくなった。日中もハンクの執務室で吐いては迷惑をかけると説明し、ならば寝室にいろと言うのを、気になって仕事に集中できないと困ると言い含め、我慢をしてもらっている。こんな状態では夜もハンクと共にできず、朝も一人で迎えている。吐いてる姿など見て欲しくない。それでも仕事の合間に私に会いに来て腹を撫で、大きな体に包み込む。時々真夜中に私の寝室へ入り、隣で少し横になったり、頭を撫でてから直ぐに出ていったりと気にかけてくれている。ライアン様はまだ悪阻が続くと言っていたから心配させてしまう。
ジュノも私の居室で眠る日が続き、休ませてあげていない。アンナリアかライナに交替するよう言っても、いつの間にかジュノがいる。
今日は空に月も出ていない、星灯りだけの暗闇。悪阻が始まる前はハンクと共に眠っていたのに今は一人。寂しくなるのを黒鷲を見て落ち着かせる。子が腹のなかで育っている証拠。吐き気が落ち着き眠りに入ろうと意識が落ちる時、扉が動いた気配がした。またハンクが様子を見に来た。多い時は日に何度も顔を出す。寝台には乗らず私の横に屈んだような気配がする。大きな手が頭を撫で髪をするすると指に巻き付け遊んでいる。温かい唇が額に当たり幸せを感じる。小さく名前を呼ぶと、返事はなく、頭を撫でて私が眠るまで側にいてくれるようだ。頬を撫で唇に触れ、手は離れた。もう私は眠りに落ちて意識は暗闇へ。
月が出ていない日は真の暗闇が訪れる。窓がなければ星灯りさえない。予め開けておいた扉の握りを回す。鍵がかかっていると思い込んでいるだろう、実際掛かっていた。
宝石商を呼び、夫婦喧嘩の仲直りのため鍵の相談をしてみれば見せて欲しいと言われ、器用に細い針金を使い開けてしまった。妻には知られたくないと金を多く渡し黙らせた。今まで気づかれなかったのは運がよかった。見様見真似で夜中に自室の扉で練習をしているが難しい、閉じることはできない。
十日前からキャスリンの様子が変わり、食べたものを吐いているとトニーから聞いた。往診では悪阻が始まったと、正常なことだから心配は無用、無理して食べても吐くから、食べられるものをと説明されたのみ。子は順調に育っていると言われても、日に日に顔色悪く、明らかに痩せたキャスリンを見て、やるせない思いが募る。父上も共に寝ていないようで、夕食時は眉間の皺が増え苛立っている様がありありと伝わる。キャスリンと前のように側にいられないのだろう。それでも夜に忍んでキャスリンの部屋へ訪れ顔を見ては戻っているようだ。
握りを回して開いても、その先にメイドがいるかもしれない。気づかれても今日だけは寝顔を見たい。
音を出さないよう、ゆっくりと握りを回し扉を開ける。向こうは暗闇だった。蝋燭の匂いが微かにする、人の気配もする。メイドが侍っているのか、寝てしまったようだ。足音をたてないよう裸足で、記憶の中の居室を進む。寝室の扉に行き着くと少し開いていた。寝室も暗闇だ、一度だけ入ったことのある寝室。暗闇に馴れた目でキャスリンが横になっているのを捉える。側に近寄り屈み込み、父上がやるように頭に触れ手触りのよい髪に触れる。反応はなく眠っているようだ…額に口を落とす。本当は唇に落としたかったがよく見えない。その時小さく、ハンクと呼ぶキャスリンの声を聞いた。なんて答えたらいいのか、それでも側を離れられなくて頬に触れ唇に触れる。柔らかい唇だ。起きないでこのまま眠ってくれ。息を殺し側に佇んでいると、寝息が聞こえ始める。髪を指に巻き付け口をつける。彼女は僕の妻だ、なのに触れられない。リリアンなんかに目を向けなければ、心を奪われなければ。悔やまれる、己の過去を全て悔やむ。
僕は立ち上がり寝室を出る、まだメイドは寝ている。音を出さずに夫婦の寝室の扉の握りを回す。運が良ければまた会える。父上に知られたら二度と会えなくなるかもしれない。それでも僕は止めない。父上だって好き勝手しているんだ。
ライアンは早く帰りたかった。常にないほどの苛立ちを見せ、さらに顔の険しさが強くなったハンクを目の前にしているのだ。ソーマの紅茶も喉を通らない。
「悪阻を止めることは無理ですって。妊婦は皆さん経験しますから。お金を積まれても、僕には何もできませんよ。待つしかないのです。つらいのはキャスリン様なんですからね。これを乗りきれば沢山食べられるようになりますから。閣下が側でお世話したくても、吐いている姿を見せたくはないのでしょう。だから近寄らせてもらえないのです。女心ですよ、わかってあげてください」
蜜月がいきなり終わってしまって、苛立ってるなぁ。僕を何度呼んでも悪阻は止まらないのに。あと十日は我慢をしてもらわなければ。できるのか…
「悪阻は人によるので短い期間で終わる方もいます。キャスリン様が短いといいですね。え?長い場合?ひどい人では一月以上続く…それは稀ですから。滅多にいない!」
面倒臭い人だな。ソーマさんもかわいそうに、毎日こんなのといなくてはならないなんて。
「閣下、ちゃんと食べてくださいよ。なんだか痩せたように見えます。キャスリン様が悲しみますよ」
痩せたのか目の下の隈が酷いのか、両方だな。顔が凶悪さを増してる。キャスリン様は閣下を人間らしくしてしまったな。以前はまるで生きていない雰囲気の人だったのに。
「僕を呼ぶのは、痛み、下腹の張り、出血の時ですよ」
不満顔の閣下に手を振られ、やっと帰ることができた。帰り際、ソーマさんから包んだ菓子をいつもより多めに渡され、瞳が潤む。今日は食べられなかったんだよ。
ソーマはライアンを見送った後、執務室へと戻った。半月前からキャスリン様の悪阻が始まり、吐いている姿を見られたくないと主の側から離れてしまった。
ライアンが去った後、主はキャスリン様のために用意したソファに座り外を眺めている。何とかしろと呼びつけたライアンも期待外れに終わり、呆けているのか、私が入室しても微動だにしない。キャスリン様は痩せてしまい、主まで食が細くなり、夜もよく眠れないのか隈まで作ってしまい、益々顔面が恐ろしくなってしまった。こんなことになろうとは、誰も想像できなかったろう。この主の姿を陛下が見たら笑い転げるのが目に浮かぶ。
「旦那様、キャスリン様が心配なさいますよ」
私の言葉など聞こえていない。仕事が進まないではないか。その時扉が叩かれ開けるとダントルが顔を出す。その後ろにはキャスリン様がつき、お痩せになったが変わらぬ微笑みで、入ってもいいか聞いてくる。私はキャスリン様の耳元で旦那様を元気にしてくださいと頼んでしまった。私はダントルと執務室の扉の外に侍ることにする。
「閣下、今よろしくて?」
空色の声に気づき顔を向けると、少し痩せてしまった愛しい娘が立っている。立ち上がり近づいて抱き上げ、座っていたソファに腰を下ろす。軽くなっている。自身の体で覆うように囲い込む。小さくなっている。
「閣下まで痩せてしまっては困ります。誰が私を抱き上げて運んでくださるの?閣下の大きくて逞しい体が好きですわ」
己の内側から声が届く。
「お前のせいだ」
小さく笑う声が聞こえる。今日は気分がいいらしい、小さな手が囲う腕を撫でている。
「そうですね。閣下が孕ませてくれたおかげです」
俺のせいか。こんなことになるならもう孕まなくていい。
「閣下の子がいる証拠ですわ。我慢してくださいな」
我慢はもうした。共に眠りたいだけだ。
「お顔を見せてくださいな」
体を少し離し、下を向くと空色の瞳がこちらを見ていた。俺の頬を撫で、目の下を触っている。
「こんなに険しくなってしまって。素敵なのは変わりませんが心配します」
額を合わせ、お前のせいだと呟く。
「夕食の後は少しつらいですが、夜は落ち着いてきました。側にいてくださる?」
口を合わせ、小さな顔に何度も口を落とす。
「ああ、もう限界だった」
これから庭を軽く歩くと言う、ベルを鳴らしソーマを呼ぶ。
「庭を共に歩く。人払いさせろ」
もう少し待て、と腕の中に声をかけ、閉じ込めておく。少し時間がかかるだろう。薄い茶の頭に口を落とす。抱き上げて散歩をしたら駄目だろうな。
ハロルドからハンクが窶れてきたと聞き、心配で会いに行けば離れなくなってしまった。吐いている姿は見せたくないけど、寂しい思いをさせたいわけじゃない。少し落ち着いてきたからもういいかしらね。顔を見ると隈まで作って少し痩せたように見える…困った人だわ。お仕事も滞っていると言うし、ソーマ達に迷惑をかけているのね。
扉が開き、ソーマから日傘を受け取り、ハンクは片腕に私を抱えたまま庭へ向かう。これでは散歩にならないと抗議をしようとすると、優しく下ろされる。太い腕に手をかけ花園の歩道を歩く。日の光から私を守るように片手で日傘を持ち影を作ってくれる。こんなに過保護でいいのかしら。甘えすぎのような気もするけど、好きにさせておこう。四阿まで歩き用意されている果実水をハンクの膝の上で飲む。ハンクにも勧めると飲ませてくれとねだる。私は口に含み伸び上がり、ハンクの口に果実水を移していく。上手にできず、少し横から流れてしまった。それでも気にせず、もっとくれと言うから、また含み溢さないようにゆっくり流し込むと太い首が鳴り飲み込んでいく。そのまま舌も入れ絡ませ合う。口を離すと黒い瞳が私を見ている。これでは二度と離れることなどできないわね。ハンクは私を抱き締め、胸に顔を埋めている。私で顔を拭いているわね。濃い紺に口を落とし撫でる。
「側にいろ」
はい、と答える。もう恥ずかしいなんて言わないわ。不安にさせてしまった、私がこの人を弱くしているの?私が側にいることで前よりもっと強くあって欲しい。
「お仕事してくださいね。ソーマを困らせないで」
私を見上げる眉間に皺が寄る。
「ソーマの疲れた顔なんて初めて見ましたわ、閣下が困らせたのでしょう?」
また、胸に顔を埋め、お前のせいだと呟いている。そうね、私のせいだわ。ハンクから離れてしまった。紺色を撫で満足するまで好きにさせる。
「閣下」
額に口をつけると黒い瞳が動き私を見つめる。
「今夜は早く眠りましょう。隈を治さなくては皆に怖がられてしまいます。一緒に湯に浸かってくださる?」
ああ、と私の胸で答えている。どちらの部屋で寝ようかしら。