「そ、それならって何だよ………………えっと、まぁ。うん」
コクリ。
頷いた気配に、梗一郎が微笑する。
おでこをくすぐる髪の毛がゆっくりと動く。
くすぐったいよと零れる笑みを、熱い吐息が覆った。
触れた唇が離れると、蓮は大きく息を吐き出した。
「……困ったよ、小野くん」
「えっ?」
「本格的にムラムラしてきちゃったよ」
「先生?」
クスクスと笑い声。
梗一郎は声を押し殺すようにして身をよじっている。
「わ、笑うことないだろ」
「す、すみません。だって……」
コホンと咳払いして呼吸を整えた梗一郎。
今度は真顔である。
「じゃあ、先生の本格的なムラムラを鎮めることをしてもいいですか?」
「んん? 本格的なムラムラを鎮めることって何なんだい!」
まるで彫刻のように整った容貌が微かに歪んでいる。
目の奥に揺れるのは欲望の炎か。
梗一郎がキス以上のことを考えているのは、さすがの蓮でも悟ることができた。
さきほどからじりじりと距離を詰められ、身体はもうテントの中に押し込められている。
「お、小野くん? ダメだよ! 君は学生で俺は先生なんだからね?」
「先生はもう先生じゃないんでしょ。契約が終わったって仰ってたじゃないですか」
「うわ、そんな言い方……。でも、だからって……んっ」
唇に熱い感触を受け入れながら、蓮はせめて目だけは力を入れて見開いていた。
もしも瞼を閉じてしまったら、全身を巡る気持ちよさに抗えなくなってしまうだろうから。
だからだろう。
唇が離れた瞬間、彼は「あっ!」と素っ頓狂な声をあげたのは。
「ど、どうしたんですか?」
自分の行動が蓮に不安を与えたのだろうかと心配になったのだろう。
梗一郎が驚いたように身を離す。
同時に蓮の指先が、ついと天に伸ばされた。
「見てよ。テントの天井に穴があいてる。星がきれいに見えるよ」
「うわ、本当だ。別のテントに替えてもらいましょうか」
「何言ってるんだい。寝ながら星が見えるなんて素敵じゃないか」
テントの骨組みに沿うように裂け目があり、天井部がペロリとめくれてしまっている。
三十センチほどの正方形状で、さしずめ天窓のようだといえなくもない。
「星が見えて素敵なんて言う先生のほうが素敵……でも、これじゃ、雨が降ったらびしょ濡れですね」
「や、やめてくれよ」
台風以来、雨が少々トラウマになったらしい蓮が顔をしかめる。
梗一郎が視線を伏せたのは、蓮につらいことを思い出させてしまったとの後悔であろうか。
勢力の強い台風だったが、人的被害がなかったのは幸いである。
しかし蓮のボロアパートは台風の影響をもろに受けてしまった。
一階は床上浸水、二階は雨漏りがひどいという。
「ははっ……でも大丈夫。大家さんが何とかしてくれるって。大家さんも泣いてたけどね。ははっ……はっ……」
傷んだ畳と壁紙は保険で対応できるそうだし、壊れた家電も大家さんの伝手で中古製品を貰い受けると決まった。
しかし大切にしていた本や、勉強に使っていたノートが濡れてしまったのは大きなダメージだ。
「……あれ、俺、よく考えたらキャンプなんて来てる場合じゃない気がしてきた。片付けしなくちゃいけないんじゃ……いや、今日はいいんだ! ははっ、息抜きも必要だし。ねぇ、小野くん?」
「ええっ? え……ええ」
この局面で名を呼ばれ、梗一郎がドキリと胸を押さえる。
慰めようと言葉を探しているのか、視線が左右に揺れた。
「い、家は残念でしたけど、でも先生がご無事で何よりです。本当によかったです」
「小野くん……」
心からの言葉なのだろう。
彼の優しさが沁みるのは。
涙ぐむ蓮の前で、梗一郎は居住まいを質した。
「あと、僕の気のせいですか? あのとき、梗一郎って名前を呼んでくれた気が……」
「わっ、わわっ!」
空に瞬く星が、急に明るく瞬きだした気がする。
ダメだ。
ホッペが赤いのがきっとバレてしまうと、蓮は両手で顔を隠した。
「先生、顔を見せて。それから、もう一回僕の名前を呼んでください」
「ダ、ダメだって。だって俺は先生だから……」
狼狽するあまり、堂々巡りの「俺は先生」を繰り返す。
「じゃあ、先生。僕が卒業したら名前、呼んでくれますか?」
ちらり。
指の隙間から覗いていると、手首をつかまれた。
数秒の抵抗ののち、あえなく真っ赤な顔を晒される。
「わ、分かったよ。君が卒業したら、きょういちろうって呼ぶからっ」
コクリ。
梗一郎が頷く気配。
チラと見上げた梗一郎の顔が、ほのかに赤く染まっているのは気のせいか。
「じゃあ、僕も……」
続く沈黙。チラリ、チラリ。催促するように蓮の視線が泳いだ。
「僕も、れんって呼び、ましょう、か」
「ぜ、ぜひ」
ここに来て急に照れてしまったか。
顔を見合わせぎこちない笑みをかわす二人。
きっといつか、滑らかに名を呼びあえる日が来るのだろう──少し未来の話だとしても。
見上げれば満天の星。
きらりと輝いてふたりを照らしていた。
祝福するかのように。
何度もくちづけをかわし、ふたりは可憐な花の蜜のような夜を過ごした。
ここは花咲く『日本史BL検定対策講座』完
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