テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
16
夜更けを過ぎた研究室は静かだった。
壁際の棚には資料と薬瓶が無造作に積まれ、机の上では消し忘れたランプがぼんやりと橙色の光を落としている。窓の外では冬の風が時折ガタガタと硝子を鳴らしていた。
椅子に腰掛けたまま書類を整理していた俺は、小さな足音に気づいて顔を上げる。
扉の隙間から、しゆらが遠慮がちにこちらを覗いていた。
「……どうした?」
声を掛けると、しゆらは少しためらうように部屋へ入ってくる。
寝巻き代わりの大きなシャツ姿のまま、胸元をぎゅっと握りしめていた。
「予紬さん……」
「ん?」
「その……」
言葉が続かない。
しゆらは何かを言おうとしては口を閉じ、視線を泳がせている。
白い頬がじわじわ赤くなっていくのを見て、思わず少しだけ口元が緩んだ。
「なんだ? 眠れないのか?」
「えっ……あ、はい……その……」
「今日は冷えるからな」
俺は椅子から立ち上がり、暖房器具を軽く叩く。だが反応は鈍い。
「そろそろ本格的に壊れそうだな……。まあ、今後の研究費を考えたら節約もしないといけないし」
「研究費……」
「寒いなら俺の部屋で寝てればいい。布団なら空いてる」
そう言うと、しゆらはきょとんと目を瞬かせた。
まるで予想外の返答だったと言いたげな顔だった。
「……ありがとうございます、予紬さん」
小さく頭を下げる。
そのまま部屋を出ていくと思って背を向けた瞬間、不意に服の裾を引かれた。
「……?」
振り返るより早く、柔らかな感触が背中に触れる。
しゆらが後ろから抱きついていた。
「お、おい……」
細い腕が、おそるおそる確かめるみたいに白衣を掴んでいる。
「布団行かなくていいのか?」
「……まだ、このままでいいです」
消え入りそうな声だった。
背中越しに伝わる体温は、思っていたよりずっと熱い。
小さな鼓動まで伝わってくる気がして、妙に落ち着かなくなる。
離した方がいい。
頭ではそう理解しているのに、なぜかその腕を振り払えなかった。
俺は小さく息を吐き、しゆらの手にそっと触れる。
「……こっち向け」
ゆっくりと体を向けると、しゆらは少し不安そうな顔でこちらを見上げていた。
琥珀色の瞳が揺れている。
その顔を見た瞬間、胸の奥が妙にざわついた。
俺は無言のまま、しゆらの肩をそっと引き寄せる。
白衣の中へ包み込むように抱きしめると、しゆらの体が小さく震えた。
「予紬さん……?」
「寒いんだろ」
誤魔化すように言うと、しゆらはふっと力を抜いた。
安心したみたいに胸元へ顔を埋め、小さく身を丸める。
髪から甘い匂いが微かにした。
静かな部屋に、互いの呼吸音だけが残る。
「……あったかいです」
胸元からくぐもった声が聞こえる。
その言葉に、心臓が妙にうるさく鳴った。
俺は視線を逸らしながら、しゆらの背をゆっくり撫でる。
こういう距離感には慣れているはずだった。
人と接することに感情なんて必要ないと、ずっとそう思っていた。
なのに今は、腕の中の温もりを手放したくないと思ってしまっている。
「……今日はここにいろ」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。
しゆらは顔を上げ、少し驚いたように目を丸くする。
それから、花がほころぶみたいに小さく笑った。
「……はい」
しばらくして、しゆらの呼吸がゆっくり落ち着き始めた。
胸元に埋まっていた顔が僅かに動き、柔らかな髪が白衣をくすぐる。
「……落ち着いたか?」
「……少しだけ」
そう言いながらもしゆらは離れようとしない。
むしろ、白衣を掴む指先にさらに力が入っていた。
俺は苦笑混じりに息を吐く。
「その様子だと、全然少しじゃなさそうだな」
「……だって」
小さく漏れた声に、自然と視線を落とす。
しゆらは胸元に顔を埋めたまま、ぽつりと呟いた。
「予紬さん、最近ずっと研究ばっかりで……」
「研究者だからな」
「それでもです」
即答だった。
少しだけ驚いて目を瞬く。
しゆらは意を決したように顔を上げた。
「ここ数日、ずっと部屋に籠もってたじゃないですか。ご飯も適当でしたし、寝てる時間も短かったですし……」
「見てたのか?」
「……見ますよ」
不満そうに頬を膨らませる。
その表情が妙に子供っぽくて、思わず笑いそうになる。
「笑わないでください」
「笑ってない」
「絶対笑いました」
「気のせいだ」
そう言うと、しゆらはむぅ……と唸りながら再び胸元へ額を押し付けてきた。
その仕草が妙に甘える猫みたいで、心臓に悪い。
俺は視線を逸らすように窓の外を見る。
夜は深く、街明かりもほとんど消えていた。
研究だけをしていればよかった頃は、こんな時間など気にも留めなかった。
眠気も空腹も無視して、結果だけを追い続けていればよかった。
なのに今は。
腕の中の小さな温もり一つで、思考が乱されている。
「……予紬さん」
「なんだ」
「ちゃんと寝てくださいね」
「努力はする」
「しない人の返事です、それ」
呆れたように言いながらもしゆらは少し笑っていた。
その笑い声が静かな部屋に溶けていく。
不意に、しゆらの指先が俺の袖をそっと摘んだ。
「……あの」
「まだ何かあるのか?」
「今日は、その……」
また言葉が詰まる。
耳まで赤くなっているのが見えて、嫌でも意識してしまう。
「……一緒に寝ちゃ、駄目ですか」
数秒、思考が止まった。
しゆらは恥ずかしさに耐えるように俯きながら、それでも逃げずに俺の返事を待っている。
研究室の時計の針だけが、やけに大きく響いていた。
断るべきだ。
理性はそう告げている。
けれど――
「……お前、自分が何言ってるかわかってるのか?」
「わ、わかってます……」
「絶対わかってない」
「わかってます!」
顔を真っ赤にしたまま言い返され、とうとう耐えきれず小さく吹き出した。
「予紬さんっ!」
「悪い悪い」
こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。
しゆらはしばらくむくれていたが、やがて観念したように肩の力を抜く。
そして小さな声で、
「……嫌、ですか」
と聞いた。
その声音があまりにも不安そうで。
俺は無意識のうちに、しゆらの頭へ手を置いていた。
「嫌だったら、とっくに離れてる」
しゆらがゆっくり目を見開く。
次の瞬間、花が咲くみたいに嬉しそうに笑った。
その笑顔を見た途端、胸の奥が静かに熱を持つ。
……本当に、調子が狂う。
「ほら、行くぞ」
「はい」
しゆらは俺の袖を掴んだまま、離そうとはしなかった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!