どこか遠くで、誰かが僕を呼んでいる。けれどその声は、ざらついたノイズに飲まれて、言葉の輪郭すら掴めなかった。
どこまでも薄暗く、足元が見えない空間。
壁も天井もなくて、ただひたすらに静かで、寒い。
いや、寒いというより、温度がない。僕だけがここに取り残されていて、時間も空気も、何一つ動いていない。
「……やめて……」
どこからか聞こえた泣き声に、心臓がドクンと脈打つ。
あれは、僕の声だ。
震えるような、幼い僕の声。
見えない誰かに追い詰められて、逃げ場を失っている。
息が苦しくて、背中が熱くて、胸の奥がひりついていた。
「違う、僕じゃない……僕は……」
けど、声は届かない。
否定すればするほど、自分が何者か分からなくなっていく。
記憶が剥がれていくような、名前も感情も空っぽになっていくような、底なしの恐怖。
「助けてよ……誰か……」
声を上げた瞬間、暗闇の中で何かが砕けた。
その音が引き金になって、世界が急激に色を取り戻していく。
熱。痛み。息苦しさ。
「っ……あ、……」
喉の奥から掠れた声が漏れた。
瞼の裏がじんじんと熱くて、目を開けようとしてもなかなか開かない。
頭の中に詰まっていた霧が、少しずつ晴れていく感覚。
ようやく、世界の輪郭が戻ってきた。
けれど、まず感じたのは、眩しさだった。
白い光が網膜を突き刺すようで、思わず顔を背けたくなる。
ゆっくりと、視界が焦点を結び始める。
白い天井。規則的な機械の音。清潔なシーツの匂い。
病院だ。そう思った瞬間、全身の力が抜けた。
「……もとき……!」
耳元で、涼ちゃんの声が聞こえた。
焦りと安堵が入り混じったような声だった。
視線を向けようとして、首に鈍い痛みが走る。
けれど、その先に確かに涼ちゃんの顔があった。目が赤く腫れている。
「やっと……目、覚ました……っ」
「無理しないで。ナース呼ぶ」
今度は若井の声。
落ち着いているようで、その実、彼なりに緊張しているのが分かるトーンだった。
「……なんで……ここに……」
かすれた声で、僕はそう問うた。
喉がひどく乾いていて、言葉を発するのも一苦労だった。
「LINEも既読つかないし、嫌な予感してさ。 家の合鍵、使って……中入ったら、元貴が倒れてた」
「そっか…見つけてくれんだね」
若井が淡々と説明してくれて、その目はしっかりと僕を見ていた。
「当たり前でしょ……! どれだけ心配したか……!」
涼ちゃんが僕の手を握りながら言う、その手が小刻みに震えているのがわかる。
「……ごめん、迷惑かけたね…」
それしか、言えなかった。
迷惑かけたこと、心配させたこと、全部ちゃんと伝えたいのに、言葉が出てこなかった。
「迷惑とかじゃないよ。元貴が、いなくなるのが怖かっただけ…… バカだよ、元貴……。
もっと早く言ってくれれば、僕ら……」
言葉の続きを、涼ちゃんは口にできなかった。
でも、その目に浮かぶものが、すべてを物語っていた。
こんなふうに、誰かの気配がそばにあるのが、久しぶりすぎて。
それだけで、心がじんわりと温かくなっていく。
ひとりじゃない。
あの夢みたいな、終わりのない闇から、ようやく引き戻された気がした。
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