テラーノベル
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玄関を開けると、暖かい空気と夕飯の匂いが迎えてくれる。
日が落ちると少し肌寒くなる季節。仕事帰りの体には、それだけで天国に思えるような瞬間だった。
夕飯の準備をしながら帰りを待っているのは包容力のある母親か、または愛する妻か。
安藤治明<あんどう はるあき>にとってこの天国で待つのは母親でも、妻でも、恋人でさえ無い。
「ただいまー」
玄関で声をかけ靴を揃えて脱ぐと、返事を待つことなくすぐに自室へ入る。仕事の鞄を無造作に置き、椅子にかけてある部屋着を小脇に抱えてキッチンに顔を覗かせた。
オレンジ色のライトで照らされたキッチンでは油がぱちぱちと音を立てている。顆粒だしと味噌が溶けた匂いは自然と治明の頬を緩ませた。
「いい匂いだね。お腹空いた。」
「おかえり。まだ夕飯できるまで時間かかるから先風呂入っといて。」
治明の声に遥は振り向いた。
鎖骨まで伸びた髪をクリップで一つにまとめ、仕事から帰ったままのカッターシャツをまくり、筋肉質な腕でフライパンを振っている。
「わかった。ご飯ありがとう。」
遥は「おう」とだけ返してフライパンに視線を戻す。
治明は部屋着を抱えたまま風呂場へ向かった。
浴室は既に暖かかった。湯船がぬるめに貯めてある。
一人で暮らしている時は湯船に浸かるなんてほとんどした事がなかった。最低限の清潔感を保つための作業の場だったからだ。
それに対して、遥は余程疲れていない限りは湯船に浸かるこだわりがあるようだった。治明も毎日貯めてある湯船に促され、すっかりこれに慣れていた。
身体を洗い流し湯船に浸かると、全身がお湯の温度に馴染んでいく。
「はぁ……」
深くため息をついた。
この時間は、自分を大切にできている証のように思えた。
心地良さを感じつつも、強い空腹状態の治明は出来たての暖かいご飯を食べ逃すつもりはない。
体が温まる程度で湯船をあがり、風呂を出てさっさと億劫なドライヤーを済ませた。
リビングに戻ると、ダイニングテーブルの上にピーマンの肉詰め、玉ねぎと卵の味噌汁、ご飯が2人分向かい合わせに並べてある。湯気の立つ料理に思わず引き寄せられる。
「いいタイミングだ。ちょうど今出来上がったとこ。」
両手に麦茶の入ったコップを持った遥は、そのままひとつを治明に渡した。
席につき冷たい麦茶を一気に流し込む。温まり脱力した体を喉から刺激し、胃袋はまだかまだかと食事を欲してくる。
「遥のご飯、暖かいうちに食べたかったんだ。もうお腹すいちゃって。仕事中からもうずっとご飯のこと考えてた。」
「そんな期待に添える様なもんなは作ってねーよ。」
遥も笑いながら椅子に腰掛けた。
「いただきます。」
ふたりは揃って手を合わせた。
1章2話
治明はピーマンの肉詰めに手を伸ばす。上手く掴めず肉とピーマンが剥がれてしまったが、そんなのお構い無しに箸でつかみ直して口に放り込む。
「美味しい!」
目を輝かせながらご飯、味噌汁と続けた。
「治明はいつも美味しそうに食べるから作りがいがあるな」
「だって美味しいんだもん。帰ってきたらこんなご馳走が待ってるなんて幸せな生活してるよ。」
「どう見てもご馳走じゃないだろ。」
「ご馳走なの。遥もいつも仕事あるのにごめんね。」
「俺の方が帰り早いんだから気にすんな。自分の食う飯を2人前にしてるだけだからなんも苦じゃ無い。サボる時もあるし。」
遥は謙遜をするが、実際家庭を持たない男の料理としては完成度が高すぎると思う。
主菜とご飯があり、毎日じゃないにしても汁物がある。
こんなご飯が待っている家に帰れるんだから、自分は余程の幸せ者だ。
「俺一人暮らしの時こんないいもの食べてなかったよ」
「こんだけちゃんと食べてたら今一緒には住んでねーよ」
遥は呆れた目をしながら笑った。
「うっ…。ホントに、感謝してますから…。」
これは痛いところを突かれたなぁと笑って誤魔化した。
遥との同居をしていなかったら、今もカップラーメンをすする毎日だったに違いない。
「いいんだよ。治明を育ててるみたいで面白いしな。」
「育ててるってなんだよ。」
治明はぷくりと頬を膨らませた。
「3年前なら今日の肉詰めのピーマンは剥がして残してただろ?それに、最近少し顔丸くなったんじゃないか?」
したり顔の遥にじっと顔を見られ、慌てて頬を戻す。
たしかに最近ちょっと太ったけど、そんな見た目に出るほどじゃないはずと思って油断していた。
「それの何が育ててるって言うんだよ。」
「そのままだよ。精神的にも、肉体的にも健康になってて満足してるって話。」
「お母さんみたいだね。」
「誰のせいだと思ってんの?」
ふたりは目が合うと「ぷっ」とふきだした。
味噌汁の最後の一口を飲み込む。
「ごちそうさま。」
皿に並んでいた料理はすっかり無くなり、不満を訴え続けていた胃袋もどっしりと膨れている。
「お粗末さま。皿片付けるよ。」
遥は食器を持って立ち上がった。
「皿洗いは俺がやるから、シンク置いといて〜。」
治明は体が重く、すぐ立ち上がることができなかった。
別にサボるつもりじゃないが、動き出すまでの猶予が欲しい。
そう思いながら、瞼はゆっくり閉じていく。
「そのまま寝んじゃねーぞ。俺風呂入ってくる。」
「んがっ、わかってるって。」
食器をシンクに置いた遥は風呂場に向かう間際、治明の眉間をぐりぐり押していった。
風呂場からシャワーの音がする。リビングはしん…としており、水の音だけが響いていた。
椅子の背もたれに体重を深く預け、天井を眺める。
この音が止んだら皿を洗いに立とう。
治明は重い体に言うことを聞かせるためそう決めた。
皿洗いを済ませ、ソファでスマホをいじっていると、遥も風呂を出たようで、本を持ってダイニングテーブルの椅子に腰掛ける。
「皿洗いありがとう。」
「どーいたしまして。」
軽く会話を交わすと、遥は分厚い本のページをめくった。乾いた紙の音が部屋に響く。
文字を追う視線が上下し、時々顔を動かした時に長い後れ毛がぱらりと落ちる。長い指で、それを耳にかけ直す。
治明は癖のように、スマホ越しに遥を眺めた。
さほど興味の惹かれない画面を滑らせながら、気づけば視線は遥に向いている。
治明は、昔からこの時間が好きだった。
教室で本を読む遥を、教科書越しに眺めていた。
藤崎遥<ふじさき はるか>とは高校時代の同級生だ。
初めて話したのは高校三年生の時。
当時は親友という程の関係ではなかったが、治明にとって唯一の友人だった事は間違いない。
高校卒業後は疎遠気味だったが、社会人になってからは遥の提案で同居をしている。こんな事になるなんて、高校時代の自分が知ったら信じないに決まってる。
「なんの本読んでるの?」
「仕事のやつ。勉強しときたくて。」
遥は視線は本のままそう答える。
「へぇ……。遥はいつも真面目だね。俺プライベート削ってまで仕事の事考えたくないな。」
集中して勉強するようであれば邪魔はしたくないので、そう呟いてスマホに目を戻したが、遥は本から顔を上げ治明を見た。
「まぁそこは考え方次第だよな。俺はさ、自分の身になるから嫌いじゃない。知識はあった方が仕事で上手く立ち回れるし後の自分に有利に働くと思うんだ。」
遥は指をしおり代わりに本に挟み込み、治明に体を向けた。
「治明も、いつか結婚したり、家庭を持つかもしれないだろ?その時に資格や役職があって悪い事はないんじゃないか。家庭を支えて行くんだろうから。」
治明は無意識のうちに目を逸らした。
「資格かあ……。上司からも言われてはいるけど、あんまり興味はないかな。」
「ま、俺もやれとは言わねーよ。」
遥は本に目を戻しパラパラとページをめくった。
治明は顔を伏せスマホに目を向けた。
遥の言うことはもっともなんだと思う。
説教をした訳じゃない。自分の考えを話しているだけ。
それは治明もわかっていた。
結婚、家庭を持つ。これは遥にとって人生で自然に来るイベントなんだ。
その時俺は、どこにいて、どんな関係で、何を思うんだろう。一緒に住んでいる訳無いし。ちゃんと遥の幸せを喜べるだろうか。
……心の底からの祝福はできないだろうな。
自分には縁のない話だ。
そもそも、もし自分が自立して、手のかからない人間になったら。
それでも、遥と今みたいに一緒にいる事はできるんだろうか。
逆にどうだ。俺がいつまでもひとりで生きられない態度を取っていたら、いつまでも一緒にいれるのかもしれない。
……いや、そんな訳は無い。遥の人生をこれ以上手間取らせるのも良くない。そんな事はわかってる。
でも今は、遥と過ごせるこの環境を、1日でも、1分でも、1秒でも長く保ちたい。ただ、それだけ。
#創作
こはく
20,800
紫水❄️🎧
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コメント
1件
うわ、めっちゃいい……! 日常の温かさと、その裏にある治明の切ない気持ちがすごく刺さった。夕飯作って待ってる遥の存在が、ただの同棲じゃなくて「帰る場所」になってる感じがたまらん。特に最後の「心の底からの祝福はできない」って自覚、めちゃくちゃ胸に来た。続きが気になるわ~!