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皆が疲れ果てて眠りについた深夜、人気のない広場に、ひとり木刀を振るう影があった。
月明かりが薄く地面を照らし、木刀の描く軌跡が黒い線となって闇に溶け込み、
時折、風を切る短い音が静寂を破るその影は、メイだった。
疲れているはずなのに、体はまだ熱を持っていた。
心のどこかがざわついていて、どうしても眠れなかった。
(明日、どれくらいの魔獣が現れるんだろう……)
(呪いを解く方法も、まだわからないまま……)
焦り、迷い、不安。だけど、それでも立ち止まっていられない。
その姿を、広場から少し離れた、濃い木陰の中から見つめる男がいた。
隊長の蓮だ。闇に溶け込むような場所で、彼は静かにメイを見守っていた。
彼の脳裏に、病院でのメイの涙が蘇る。
「強くなりたい……」そう泣きながら胸にすがったメイ。
でも、今そこにいるのは、あのときとは明らかに違う光を纏っていた。
「メイ!!」
不意に足元へ木刀を滑らせるように打ち込んだ
突然、足元から襲いかかる殺気に、メイの体が反射的に反応した。
意識が加速し、全ての感覚が研ぎ澄まされる。考えるより早く、手にしていた木刀を低く構え
迫りくる衝撃を受け止めた。
ガァン!
木刀同士が打ち合う鈍い音が、夜空に響き渡った。
「た、隊長!?」
驚いた声を上げるメイに、蓮はフッと小さく笑った。
闇夜に溶け込むような、静かで、しかし温かさを帯びた笑いだった。
「ほぉ……受け止めるとは。……成長したな」
「えへへ、隊長にほめられた……」
メイは耳まで赤く染めて、はにかんだ。
無邪気に笑うメイの横顔が、なぜか目を離せなかった。
(…あの頃の泣き虫とは別人だな)
蓮は胸の鼓動を誤魔化すように咳払いした。
「……も、もう寝ろ。明日に備えるのも訓練だぞ」
「はいっ。でも……あと少しだけ、いいですか?」
「……そうか」
蓮は手にしていた木刀を再び構え直した。メイもまた
緊張と喜びに頬を染めながら、木刀を構える。
ガァン、ガァン。
乾いた木刀の打ち合う音が、再び静かな夜に響き始めた。
空高くかかった月は、ただ黙って、その光景を見守っていた。
どれくらい時間が経っただろうか。
さすがのメイも、額に汗を浮かべ、木刀を肩から垂らすようにしてその場にへたり込んだ。
「はぁ、もう足が動きません……」と汗を拭きながら笑う。
息を切らしながらも、どこか達成感のある声だった。
蓮は小さく笑う。「はは、よく頑張ったな」
メイは寝転がるようにして空を仰ぎ見た。夜風が少しだけ汗を冷ます。
「……綺麗な月」
満月が、雲のない夜空に凛と浮かんでいる。
信国の地は魔獣が蠢く不穏な場所のはずだったが、この夜だけは不思議と静まり返っていた。
川のせせらぎと、草むらの虫の声。
それだけが、ふたりを包む音だった。
蓮は何も言わず、そっとメイの隣に腰を下ろしす。
見上げた月は、戦いも呪いも知らぬ顔で、冷たくも優しく輝いていた。
「……本当に綺麗だな」
その声に、メイは横目で蓮の横顔を見つめる。
優しいけれどどこか寂しげなその表情に、胸が少しだけ、きゅっと締めつけられる。
メイは、思わず顔をそむけた
月の光が照らす蓮の横顔を、もうこれ以上見ていられなかった。
胸の奥で、あの出来事がじわりと蘇る。――帝都軍の基地で見かけた、美しい女性。
整った顔立ち、気品ある振る舞い。
まるで別世界の人のように完璧だった。
そう、蓮の“婚約者”。
メイは喉の奥がきゅっと締めつけられるのを感じながら、無理やり言葉を紡いだ。
「た、隊長は……いいなぁ……」
「どうした、突然?」
掠れた声は、思った以上に震えていたかもしれない。蓮が不思議そうにこちらを向く。
メイは笑おうとして、うまく口角が上がらなかった。
「あ、あんな美人の婚約者がいて……ボク、う、羨ましいな」
羨ましい?違う。羨ましいなんて、これっぽっちも思ってない。
心臓が張り裂けそうなくらい苦しいのに、なんでこんな、自分を追い詰めるようなことを
言っちゃうんだろう。言葉にするたび、胸の痛みが増していく。
蓮はメイの心中を知る由もなく、あっさりと応じた。
「ああ、確かに美人だな」
その一言で、何かが決壊した。
メイは耐えきれず立ち上がり、顔を背けた。
涙がこぼれるのがわかる。でも、絶対に見せたくなかった。
必死に空を見上げる。月が滲んで揺れた。
「でも――フラれたけどな」
蓮の声が静かに背後から届いた。
「え……?」
メイは振り返れず、ただ立ち尽くしたまま、耳を澄ませた。
「正確に言うと、最初から俺も彼女も、そういう気持ちは一切なかった。
いわば、形式だけの関係だったんだよ」
「えっと……婚約者じゃ、ないんですか……?」
掠れる声でようやくそう尋ねると、蓮は苦笑まじりに答えた。
「“婚約者”って言葉は、周りが勝手に言ってただけで
俺には今のところ、婚約なんて考えられない」
その言葉に、メイの胸に張り詰めていたものが、ふっと緩んだ。
だが、涙は止まらなかった。
恥ずかしくて、情けなくて、どうしようもなくて、下唇を噛む。
蓮が立ち上がる気配がして、そっとメイの方へ歩み寄る。
「おい、なんで泣いてるんだよ」
その声に、メイは驚いて思わず後ずさった。
でも、その優しさに、少しだけ救われた気がした。
蓮の手が、そっとメイの頬を撫でた。
その大きくて温かい手に包まれて、メイの心はふわりと緩んでいく。
どこか張り詰めていたものが、解けていくような感覚だった。
蓮は小さく息を吸い込み、何かを言おうとして――ふと、言葉を詰まらせた。
「オレは、お前が……」
だが、そこで言葉は止まる。
彼の心の中で葛藤を引き起こしていた。
(ちょ、ちょっと待て、俺は一体何を言おうとしているんだ?)
彼の心は不安と期待が交錯し、どうしようもない感情に揺れていた。それでも、
メイの瞳を見つめると、愛おしさが溢れ出てくるのを感じた。
頭の中に渦巻くのは、理性と、押さえきれない衝動。
不安と期待が複雑に絡み合い、言葉を濁すしかなかった。
「い、いや……なんでもない」
そう呟いた蓮に、メイはほっとしたように微笑んだ。
婚約者ではなかった――その事実に、どこか安心したのかもしれない。
さっきまでの涙が嘘のように、笑顔が戻っていた。
その時
蓮は、ためらいなくメイを自分の方へ引き寄せ、力強く抱きしめた。
「……っ」
彼はメイの腕を引き寄せ、その小さな体を抱きしめた。
思わず胸に飛び込んでしまうほど、力強く。
「え……?」
戸惑いの声を漏らすメイ。
心臓が跳ねる。
(えっ……なに? これって……)
頬が熱くなる。
期待なんてしてはいけないとわかっているのに、それでも、少しだけ――。
「メイ……動くな」
突然、蓮の声が低くなった。
――グルルルル……
不気味な唸り声が、月夜の静けさを破った。
「隊長……?」
とメイが不思議そうに聞いたその時、蓮の背後に不気味な影が立っていた。
メイの声が震え、「ま、魔獣!」蓮は魔獣に向き直り、冷静な声で命じた。
「メイ、逃げろ」彼は一瞬の躊躇もなく魔獣に向かって走り出し、
魔獣もまた蓮を追いかけて林の中へと消えていった。
メイは立ち上がり、焦燥感に駆られて叫んだ。
「待って!すぐに副官に知らせなきゃ!」そう言うと、メイは全力で駆け出した。
しかし、その時、心臓がドックンドックンと激しく打ち始めた。
それは次第に大きくなり、呼吸が乱れ、まるで息ができなくなるような感覚に襲われた。
あの時と同じだ。メイは苦しそうに、「今は…蓮隊長が…」意識が遠のき、
その場に倒れ込んだ。森の中には、ただ月光と静寂だけが残された。