Side 北斗
はき慣れた袴の上に、トンビコートを羽織る。そしてハットを被れば、いつもの格好が少し上級になった気がした。
この中折れ帽は、慎太郎さんにおすすめされたものだ。着物にも似合う深緑で、黒の帯のようなリボンがついている。
そして、前夜までにまとめた荷物を入れた鞄を持ち、部屋を出る。
住み慣れたこの葵の間とも、しばしのお別れだ。
するとちょうど、椿の間から慎太郎さんが出てくる。彼は普段通り、質の良いグレーのジャケットに身を包んでいる。
「準備、整いましたか。では一緒に行きましょう」
今日は日曜。仕事も大学も休みである。
そして、2人とも故郷にしばらく戻ると決めた日だ。
「仕事は大丈夫なのですか」
俺が訊くと、
「ええ。地震の取材で大変ではあるんですが、人員は足りているそうで。休暇をもらえました」
「それは良かった」
俺は下駄を、彼は革靴を履く。まだ履き物を変える勇気はない。
他愛もない会話を交わしながら、駅へと向かう。
人力車の駆ける音と車輪の音が重なる。遠くで列車の走行音が聞こえ、遠ざかっていく。
様々な装いの人々がすれ違い、声がしては消えた。
倒壊した建物の周りでは、工事業者たちが忙しそうに動き回っている。
そんな東京の街並みを、橙色の電燈がぼうっと照らす。
「じゃあ」
改札口の手前で、その一言が被った。俺らはくすくすと笑い合う。
「ゆっくりしてきてくださいね」
「北斗さんも」
慎太郎さんは、手をひらひらと振って外套を翻す。
買った切符をきってもらい、プラットフォームに向かう。ちょうど反対側に彼の姿を認めた。俺にも気づいたようで、笑うのが見えた。
すると、向こうの線路に列車が音を立てながら入ってきて、その風で袴の裾がはためいた。
列車が再び発車したとき、彼はもうそこにはいなかった。
終わり
コメント
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すっっっっごく素敵なお話でした✨ 大正時代の感じがすごく伝わってきてて、カムカム見てるのに近い感覚というか… 文才をとても感じてます笑 主さんの過去作もちらちら読んでいこうと思います🥺