――死んだ。
その事実が、レクトの心を重く、冷たく押し潰していた。
まるで胸の奥に鉛の塊が沈んでいるかのようだった。息をするたびに、その重さが肺を締め付け、思考を鈍らせた。
ゼンが図書室の冷たい床に倒れてから、すでに数日が過ぎていた。
学園では公式に「ゼンは実家の事情で転校した」と発表されていた。
生徒たちはその言葉を疑うことなく受け入れ、日常に戻っていた。
しかし、その言葉が嘘だと知る生徒が、たった二人だけいた。
レクトとヴェル――
あの瞬間を、目の当たりにした二人だけが、真実を背負っていた。
校長からの意見により、図書室での殺人事件は「完全に無かったこと」として生涯秘密にすることになっている。
が、
とても、ただの学生が背負えるものではなかった。
「……俺、人殺し…………俺っ、、………」
寮の狭い部屋で、レクトはベッドの上で膝を抱え、震える声で呟いた。
窓から差し込む月明かりが、部屋の片隅に淡い光を投げかけていたが、その光は彼の心を温めるにはあまりにも弱かった。
目を閉じると、あの場面が脳裏に蘇る。
真っ赤なリンゴ。
自分の魔法で生み出した、甘い香りを漂わせる、しかし毒々しい果実。
そして、それを何の疑いもなく、笑顔でかじったゼンの顔。
(俺が……殺した……)
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
どれだけ否定しようとしても、
事実を消すことはできなかった。
ゼンは死に、
レクトの手がその引き金を引いたのだ。
罪悪感は、彼の心を黒い霧のように覆い尽くしていた。
「レクト、行くよ! 次、杖の授業だって!」
突然、部屋のドアが開き、ヴェルが明るい声で呼びかけてきた。
彼女はいつもの元気な笑顔を浮かべていたが、その目はどこかぎこちなく、緊張を隠しきれていなかった。
彼女もまた、図書室での出来事を忘れられなかったのだ。
あの瞬間、ゼンが倒れたとき、彼女はレクトの隣にいた。
血の気が引いていくゼンの顔を見たのは、彼女も同じだった。
「……うん」
レクトは小さく頷き、ゆっくりとベッドから立ち上がった。
ヴェルの前では、せめて平静を装わなければと思った。彼女にこれ以上心配をかけたくなかった。
二人は無言のまま、寮の廊下を抜けて教室へと向かった。
学園の石造りの廊下は、朝の光を受けて冷たく輝いていた。
生徒たちの笑い声や足音が遠くから聞こえてくるが、レクトにはそれらが遠い世界の音のように感じられた。
彼の心は、ゼンの死と向き合うことだけで精一杯だった。
「よう、毒リンゴ男」
不意に、鋭く冷ややかな声が背後から飛んできた。
レクトの背筋に冷たいものが走った。
振り返ると、そこには見慣れた二人の姿があった。カイザとビータ。
学園でも一目置かれる実力者であり、レクトにとってはあまり関わりたくない相手だった。
カイザは黒の髪を揺らし、ニヤリと笑いながら歩み寄ってきた。その瞳には、獲物を追い詰めるような光が宿っていた。
一方、ビータは気味の悪い笑みで腕を組み、レクトを値踏みするように見下ろしていた。
背が高く、鋭い目つきの彼は、まるで全てを見透かしているかのようだった。
「最近おとなしいな? レクトくんよぉ、図書室でなんかやっただろ?」
カイザの声には、わざとらしい軽さが含まれていたが、その言葉はナイフのように鋭くレクトの心を切りつけた。
「ゼンが消えたの、お前のせいじゃねえの?」
「……な、何言ってるんだよ……っ」
レクトは思わず後ずさった。
喉が締め付けられ、言葉がうまく出てこなかった。
カイザの言葉は、彼が必死に抑え込もうとしていた罪悪感を抉り出した。
「ゼンは最後、おまえと図書室にいたんだよな? で、次の日には“転校”? おかしいと思わねぇか?」
カイザがさらに一歩詰め寄り、レクトの肩を軽く叩いた。その動作は軽いものだったが、レクトにはまるで鉄の重さを感じさせた。
「か、カイザくんやめてよ……!」
ヴェルが叫び、レクトの前に立ちはだかった。
彼女の小さな体は震えていたが、目はカイザを真っ直ぐに睨みつけていた。
「ただの偶然だよ! それ以上言うなら、先生呼ぶから!」
「おうおう、必死だな? ま、いいさ」
カイザは肩をすくめ、わざとらしく手を上げて下がった。
しかし、その瞬間、ビータが静かに口を開いた。
「オレの魔法、知らないだろ?」
その言葉に、レクトの心臓が大きく跳ねた。ビータの声は低く、まるで闇の底から響いてくるようだった。
「……っ」
レクトの叫び声が廊下に響いた。
ヴェルが振り返り、唇を震わせてレクトを見つめた。
彼女の目には、恐怖と悲しみが混じっていた。
「見たんだよ。毒だったんだ。おまえの魔法が、ゼンを殺した。」
ビータの言葉は、まるで刃物のように鋭く、正確にレクトの心を貫いた。
レクトの顔から血の気が引いていき、足元がふらついた。
目の前が一瞬暗くなり、倒れそうになるのを必死に堪えた。
だが、次の瞬間、ビータの目がわずかに細くなった。
彼は一歩踏み出し、声をさらに低くして続けた。
「どうする?認めるなら通報していいかな?」
カイザがニヤリと笑い、ビータの言葉を引き継い
「ま、俺たちは疑ってるだけだ。無罪だと証明できるものがあるなら、見せてくれよフルーツ男」
カイザがそう言い放ち、ビータと共にレクトを囲み始めたその時……ー
「そこまでだ」
柔らかく、しかし威厳のある声が響いた。
どこからともなく現れたのは、教室の魔法理論講師、フロウナだった。
彼女は長い銀髪を揺らし、片手に杖を持ってふわりと二人の間に降り立った。
その姿は、まるで風のように軽やかで、しかしどこか圧倒的な存在感を放っていた。
「他人を脅すのは、あまりにも愚かな行為です。
ビータ、あなたの時間魔法は確かに素晴らしい。
しかし、あなたはまだ1年生です。
魔法を上手く扱えてなくて、「現実では無いもの」を見ている可能性も、ありますよね?」
フロウナの声は穏やかだったが、その言葉には誰も逆らえない重みがあった。
「本当にゼンくんは転校しています。先生が嘘をついてるとお思いなんですか?」
続けてフロウナはそう呟いた。
ビータは一瞬だけ彼女を睨みつけたが、すぐに舌打ちをしてカイザと共に廊下の奥へと消えていった。
「助けてくれて……ありがとうございます、、フロウナ先生、、」
レクトは震える声で礼を言った。
心臓はまだ激しく鼓動していたが、フロウナの存在が少しだけ彼を落ち着かせていた。
「礼はいい。校長から話は聞いている。
引き続き油断はするな。君の魔法は……良くも悪くも、特異だ。」
フロウナはそう言うと、背を向けて歩き始めた。その背中に、レクトは何か言おうとしたが、言葉が喉に詰まった。
「それより、杖の授業だ。教室へ来なさい。全員に“個別の杖”が配られるわよ」
フロウナの声に、レクトとヴェルはハッとして、慌てて教室に向かう。
教室に足を踏み入れると、すでに生徒たちがざわめきながら列を作っていた。
今日の授業は「個別魔杖の適応訓練」。
生徒一人ひとりの魔法に最も適した杖が渡される、特別な日だった。
教室の中央には、フロウナが用意した無数の杖が木製の机に並べられていた。
それぞれの杖は、形も色も素材も異なり、まるで生きているかのように微かな魔力を放っていた。
「さあ、並んで。杖は選ぶものではなく、選ばれるものよ」
フロウナがそう言うと、彼女の手が軽く宙を舞った。
すると、机の上に並んでいた杖たちが一斉にふわりと浮かび上がり、
それぞれの持ち主を探すように教室を漂い始めた。
「……すげぇ」
生徒たちの間で驚きの声が上がった。
杖たちはまるで意志を持っているかのように、ゆっくりと生徒たちの間を縫って移動していく。
一本の杖がヴェルの前で止まり、彼女の手元で柔らかく光った。ヴェルは少し照れくさそうに笑い、杖を手に取った。
レクトはただ立ち尽くしていた。
自分の魔法が、こんな美しい瞬間に関わっていいのだろうかと、どこかで不安が疼いていた。
だが、その時――
一本の杖が、ピタリと彼の目の前に止まった。
細長いが他と比べて明らかに太くて、黄色くて、長さも微妙に短さがある、妙な杖。
これは杖というか、最早……ー
「いや、これ」
レクトは恐る恐る手を伸ばし、バナナ杖に触れた。
瞬間、杖がかすかに震え、柔らかな赤い光を放った。まるで彼の手になじむように、杖の表面が温かくなった。
「どうやら気に入られたようね、レクト」
フロウナが微笑みながら近づいてきた
。彼女の目は、どこか優しく、しかし鋭くレクトを見据えていた。
「君の魔法は“生成”と“変質”。この杖は、まさに、君にふさわしいわ」
「……ありがとう、先生、こんなのまるでバナナですけどね💦」
レクトはバナナ杖を握りしめ、胸の奥に小さな温かさを感じた。それは、ゼンの死以来初めて感じる、希望のようなものだった。
その頃、学園の校長室では、静かな会話が交わされていた。
「レクトの件ですが……サンダリオス家から連絡がありました」
校長アルフォンスの前に立っていたのは、副校長の男だった。
彼の声は慎重で、どこか緊張を帯びていた。
「母親のエリザ様が、近々こちらに来校されるとのことです」
アルフォンスは重いため息をつき、椅子の背にもたれかかった。彼の目は、まるで遠くを見ているようだった。
「エリザか……レクトを“捨てたい”だけのくせに」
「え?」
副校長が驚いたように声を上げたが、アルフォンスは静かに続けた。
「彼女の目的は、レクトの再教育でも帰還でもない。“処分”だ。サンダリオス家にとって、あの少年はもはや“失敗作”。」
その言葉に、副校長は息を呑んだ。
アルフォンスは立ち上がり、窓の外に広がる学園の庭を見つめた。
月明かりが、木々の葉を銀色に染めていた。
「だが、私はあの少年に“価値”を見た。……フルーツなど、ただの始まりに過ぎない。魔法は、深淵に続くものなのだよ」
そして副校長は、アルフォンスの言葉に声を返してゆく。
「それでは、エリザ様のご来校について、どうされますか?」
「断ってしまいなさい。」
「かしこまりました。」
副校長はそのまま校長室から去っていった。
バタン
その夜、レクトは寮の中庭で一人、
バナナ杖を手に立っていた。
昼間の喧騒は遠く、
静かな夜の空気が彼を包んでいた。
頭上には満月が輝き、まるで彼を見守っているかのようだった。
「……この杖と、俺の魔法で……」
レクトは杖を握りしめ、空を見上げた。月の光は、どこか優しく、しかし冷たくもあった。
「ゼン……お前の死は、絶対無駄にはしない」
彼は深呼吸をし、ゆっくりと呟いた。
「俺、もっと強くなる。自分の魔法を、ちゃんとコントロールできるように……誰も、傷つけないように」
その手には、新しい杖。その瞳には、確かな決意が灯っていた。
「もう一度、家族と仲良くなれるように……!」
バナナの杖は確かにみっともない見た目。
だけど、
だけどレクトはその杖が少しだけ、頼もしく見えたりも、した。ー
次話 5月17日更新!
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