「爪、ボロボロだね」
ハルは私に言われて自分の爪を見ながら答える。
「ああ、元々脆いのに登ろうとしたから、沢山割れちゃったんだ」
良く見ると、生え際の所から厚みが不揃いで、横に多くのラインがある。指によっては薄過ぎて反り返る様な形になってしまっている様だ。
「良いお母さんだね」
爪に気を取られていたので、それが私の話に対する感想だと言うことにすぐ気付かなかった。
うん、確かに私は母に救われたのだろう。父も母もとても勤勉な人だった。無意味に休んだりサボったりという事とは無縁の人達だ。それが、よく分からない私の為に、無理矢理休んで「非日常」を作り出してくれた。登山で自然と触れ合って気持ちが少し明るくなった気がするし、何にも興味を持てなかった私が、ウサギらしき姿を追い掛ける程になっている。
頷いて、私はハルに言った。
「ハルはどうしてここに落ちたの?」
「僕はね、行方不明になろうと思ったんだ」
ハルは、爪を見ながら悲しそうな表情をする。
座って弛んだワイシャツの前の合わせの間からチラリと何かが見える。ビニールのコードの様だ。
私の視線に気付いて、ハルは胸元のボタンを一つ外す。胸の右側、丁度心臓の反対側辺りからストロー程の太さのコードが出ていた。
「カテーテル。腕からの点滴だと血管が保たないから、太い血管に管を通して送り込むやつ。僕病気なんだ」
ハルの顔を見た。血の気の無い白い顔を再び正面に向けて話を続ける。
「僕の家は普通の家だったけど、ある日僕が病気になってしまったんだ。何もしないと高い発熱が短い間隔で続いて、貧血が進んで行く。勿論それ自体も辛いんだけど、僕が苦しんでる姿を見る母さんの顔が辛そうでさ・・・。何度も輸血を繰り返してもずっと貧血。高い治療薬で副作用に耐えても治らない。治療費もずっと借金みたいだし、もう、良いかな?って思って」
私はびっくりした。
「えっ、良くないよ。そう言うの詳しくないけど、そのままじゃ駄目なんじゃない?お母さん心配してるよ。早く帰らなきゃ」
「僕さ、母さんの重荷以外の何ものでもないって思ったんだ。どんなに薬使っても結局死んじゃうなら、今居なくなっても同じって。居なくなればお金ももう掛からないし、母さんも辛い顔しなくて済むし」
「駄目ダメ。最後まで諦めちゃ駄目だよ」
腕切った私が言うんじゃ説得力無いかも知れないけど。恐らく、私如きでは想像も出来ないような辛い思いをしてきたのだとは思う。それでも、諦めて欲しく無い、と強く思った。
思わずハルの腕を掴んで揺すってしまった。そうしないと私の声がハルに届かない気がしたから。でもその掴んだ腕が余りにも細くて、折れてしまいそうで、ぎゅっと胸が痛くなり、鼻の奥がツンとなった。
座って丈が上がったズボンの裾から覗く足首が細い。よく見れば首も鎖骨がくっきり浮き出るほどにガリガリと痩せている。
駄目だ、泣いてしまいそうだ。
眼頭にぐっと力を込めた時、ハルは「うん」と頷いた。
「綾の話を聞いていたら、母さんともう一度話さなきゃって思った。僕さ、間違えちゃった」
ハルは力無く笑った。
「綾は凄いね。お母さんに自分の事を伝えられて。考えてみたら、僕は自分から何かをした事は一度も無かった。全部やって貰うだけで、したい事も嫌な事も、何も言い出さなかった。言葉にしないと何も分からない事もあるのに。僕から見て無駄にしか感じられない事にも、母さんからしたら違う意味があったかも知れないのに。家出する前に、話せば良かった」
それから暫く、お互いの事を話した。ハルは私の住む東京の事を聞きたがった。浅草の饅頭や隅田川の花火よりも、地下鉄に興味があるようで、乗換えのコツや、安くなる方法等を興味深く聞いて来た。
日が影って暗くなってきた頃だ。微かに人の声が聞こえてきた。
「ハル、誰か来たみたい」
私は、上に向かって大きな声を出した。下草を踏み分ける音と共に複数の探す声が近付いてくる。暗くなり始めた空を、何かが遮ったと思うと、
「誰がいるのか?」という声が届く。
「良かった。助けがきたよ!ハル・・・」
振り返ったそこには、今迄ハルが座っていた筈の場所には、誰も居なかった。
「ハル・・・?」
ロープが降ろされ、消防団の人が降りて来た。
「大丈夫かい?・・・うっ!」
団員は、顔を顰めて鼻を覆う。どうしたのかと首を傾げると、団員は私の背後を指差す。
そこには学生帽と、その下に疼くまるような何かがあった。腐臭がするのだろう、団員は顔を開く布で覆い、私にベルトの様な器具を付けてロープで上に運んでくれた。上には両親が居て、涙を流していた。
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