テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
専務が帰ったあとのフロアは、しばらく誰も口をきかなかった。
私は箱を開けて、指輪を左手の薬指にはめた。テープを巻いた分、回らない。それだけを確かめて、決裁書の束に戻った。
「ひよりさん」
小森さんが隣に椅子を引いてきた。声が小さい。
「いつからですか。どこで。どっちから」
「仕事して」
「します。しますけど」
課長が、まあまあ、と言った。それで小森さんは席に戻ったけれど、十分おきに私の左手を見ていた。
十時過ぎ、備品の補充の予備を取りに廊下に出ると、秘書室の氷室さんがエレベーターから降りてきた。栗色の髪。きれいな笑顔。私を上から下まで一度見て、すれ違うときに言った。
「地味な方ほど、計算高いのね」
私は返さなかった。棚の扉を開けて、ペンの箱を数えた。数はいつもどおり合っていた。
十一時。小森さんの手が止まった。顔を上げると、佐伯さんが机の前まで来ていた。
明るい色のスーツ。両手をポケットから出して、笑顔で。フロアの数人が、手を止めた。
「水瀬さん。ちょっと、話が」
佐伯さんは机の前で止まった。付き合っていた頃と同じ声の出し方で、人前用の呼び方で。
「どこか空いてる会議室で、五分だけ」
私は決裁書から目を上げた。元カレと会議室で五分話せば、月曜の一文が今日は別の形で流れる。それが分かっていたので、言うことは一つしかなかった。
「業務の話なら、申請書でお願いします」
佐伯さんの笑顔が、一瞬だけ止まった。
「……そういう感じか」
「総務への依頼は、全部申請書で受けています。いつもどおりです」
「分かった」
佐伯さんは笑顔を戻して、来たときと同じ歩き方でエレベーターに戻った。扉が閉まるまで、私は決裁書の同じ行を見ていた。
「ひよりさん」
小森さんが、机の下で小さく拳を握っていた。
「かっこいい」
「仕事して」
昼休みの直前、高梨さんから内線が来た。専務室で昼食を、と言われて、私は七階に上がった。
机の上に弁当が二つ置いてあって、高梨さんは「失礼します」と言って出ていった。専務は窓際の机から、ソファの前の丸机に移ってきた。
「人前では奏と呼べ」
弁当の蓋を開けながら、専務が言った。
「……はい」
「言ってみろ」
「奏」
「さんくらい付けろ」
「奏……さん」
「下手だな」
専務は箸を取った。耳が、赤かった。
私は目を弁当に落とした。焼き鰭と卵焼き。高梨さんが選んだのだと思う。
「専務」
「奏だ」
「ここは人前ではないので」
専務は、弁当についてきた甘い缶の紅茶を見て、手を付けずに脇へ寄せた。
「専務は、社内の自販機でブラックしか買いませんよね」
箸が止まった。
「なぜ知っている」
「補充の記録に出ます。七階の自販機の補充は、総務が業者と一緒に数えるので。ブラックの缶だけ、月曜の朝に一本減ります。その時間に七階にいるのは専務と高梨さんだけで、高梨さんは紅茶です」
「……そうか」
専務は何も言わずに卵焼きを食べた。それから、言った。
「お前の記録は、どこまで出る」
「数えられるものは、全部」
専務は、少しのあいだ私を見ていた。月曜の夜、台帳を読んでいたときの目だった。
「……食え。午後は会議だ」
午後二時、会議室C。
役員への補足説明会、と案内には書いてあった。コスト委員会で出た提案を、役員に細かく説明し直す場で、私はまた記録係だった。
出席は専務と、営業企画部の部長と、経理の部長。常務は、外出で来ないと高梨さんが言っていた。
佐伯さんが前に立って、月曜と同じ資料をめくる。月曜より早口だった。会議室の稼働率。一括調達の見積もり。年間二千万円。
私は数字を書いた。全部、春に自分の字で書いた数字だった。会議室Fの稼働率、六割。これは私以外、誰も数えていない。
「以上です。ご質問があれば」
佐伯さんが両手を広げた。部長が二人、うなずいた。
専務は、資料の一枚目に目を落としたまま、言った。
「この提案の最初の下書きは、誰が書いた」
誰も口を開かなかった。
佐伯さんの両手が、広げたまま止まった。
「……最初の、下書き、というのは」
「最初に数字を集めて、一枚にした人間だ。誰だ」
「……僕です」
また、三秒くらいだった。
「数字は、チームで検証していますので。間違いはありません」
佐伯さんが付け足した。聞かれていないことだった。
「そうか」
専務はそれだけ言って、資料を閉じた。
佐伯さんが、資料で口元を隠した。
それ以上、専務は何も聞かなかった。部長たちが顔を見合わせて、経理の部長が咳をして、会は終わった。
でも、私は見ていた。佐伯さんの手元の資料が、揃えようとして揃わなかったのを。部屋の中の数人が、専務が閉じた資料と、長机の端の私を、順に見たのを。
私は、ノートを閉じた。何も書かなかった。書かなくても、今日の日付は覚えている。
午後五時。受付から内線が入った。
「水瀬さんにお客様です。一階にお越しいただけますか」
名前を聞いても、受付の人は「直接お話ししたいと」と言った。
一階に降りた。ショールームの横の受付の前に、白い薄手のコートの女性が立っていた。
私より少し若い。髪は長くて、まっすぐ私を見ている。
「水瀬ひよりさんですね」
「はい」
「東雲紗英です」
女性は、ゆっくりと頭を下げた。それから顔を上げて、言った。
「父から、私が奏さんと結婚すると聞いているのですけれど」
コメント
1件
ああ、これは面白い……いや、面白いというより、静かに胸がざわつく回でしたね。水瀬さんの観察眼の鋭さが、コーヒーの缶の減り方や資料の“揃わなさ”でぴったり裏付けられていく感じ、すごく好きです。そして最後の東雲さん。「父から聞いている」という一文で、専務とひよりさんの関係に外から楔が打ち込まれるような緊張感。次が気になりすぎます。
#年の差
当麻月菜
1,226
星キラリ

1,535
#略奪
秘翠ミツキ
1,891
美並ナナ
1,572