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その日は、妙だった。
スペクターが何もしない。
触れない。
呼ばない。
視線すら寄越さない。
まるで最初からノスフェラトゥなど存在しないみたいに。
それが、こんなにも落ち着かないとは思わなかった。
大広間。
ノスフェラトゥは窓際に立ちながら、何度目かわからないほど視線を巡らせる。
赤いシルクハットを探してしまう。
――いない。
舌打ち。
「……何をしている」
自分で自分に腹が立つ。
別に会いたいわけじゃない。
命令されたいわけでも、
撫でられたいわけでもない。
なのに。
身体がずっと“待っている”。
喉元を無意識に触る。
首輪はない。
ないのに、
そこだけ妙に熱い。
その様子を、少し離れた場所からアズールが眺めていた。
魔女帽子のつばを押さえながら、小さく笑う。
「ねぇホスフォラス」
「ん?」
「最近あの人、スペクター様いないと落ち着かなくない?」
ホスフォラスが尾を揺らす。
「あー……」
視線の先。
ノスフェラトゥは本を開いている。
だがページが全然進んでいない。
数秒ごとに入口を見てしまっている。
完全に挙動不審だった。
ホスフォラスが吹き出す。
「うわ、重症」
「ね」
「前はスペクター様に触られるだけで噛みつきそうだったのに」
「今、“来ない”だけでそわそわしてる」
ノスフェラトゥの耳がぴくりと動いた。
聞こえていた。
赤い目が鋭く向く。
「……殺されたいか」
「ほら、イライラしてる」
「禁断症状じゃん」
「違う!!」
珍しく即座に否定する。
だが声が少し乱れていた。
アズールは面白そうに近づいた。
「じゃあなんで、ずっと入口見てるの?」
「見てない」
「さっきから七回見た」
「……」
図星だった。
ノスフェラトゥは苛立ったように本を閉じる。
その瞬間。
広間の扉が開いた。
かすかな革靴の音。
ノスフェラトゥの身体が反射的に振り向く。
10,618
――スペクター。
赤いシルクハット。
それを視界に入れた瞬間。
張り詰めていた呼吸が、ふっと緩む。
自分でもわかるほどに。
しまった、と思った時には遅かった。
アズールとホスフォラスが同時に吹き出す。
「今の見た!?」
「めちゃくちゃ安心した顔した!!」
「してない!!」
ノスフェラトゥが怒鳴る。
だが耳は完全に伏せていた。
スペクターはそれを見ても、何も言わない。
ただ静かに横を通り過ぎる。
触れもしない。
呼びもしない。
それだけなのに。
ノスフェラトゥの視線は、無意識にその背中を追ってしまう。
スペクターは振り返らない。
だが口元だけ、少し笑っていた。
全部わかっている顔。
“何もしない”ことで、
ノスフェラトゥがどれだけ自分を意識するか。
試している。
いや。
もう確認しているだけだ。
ノスフェラトゥは唇を噛んだ。
悔しい。
何もされていないのに。
命令も、
首輪も、
接触もないのに。
頭の中が、ずっとスペクターで埋まっている。
それこそが一番恐ろしかった。